2010年 全国学生理論合宿報告 『資本論』 刊行によせて ここにおくる小冊子は、 2010年 3月に開催された「全国学生理論合宿」で使用された資本論学習のレジュメを、合宿におけ る討論内容なども踏まえ加筆・修正したものである。 全国学生理論合宿は、社会科学の研究と実践を旨とする社会科学研究会をはじめとして、全国各地で学生自治活動を実践す る学生たちの結集のもと、熱烈な討論を通してカールマルクス原著、フリードリヒ・エンゲルス編による資本論を、現代的課 題に即応する社会科学の基本文献として復権した。 もとより資本論は、あらゆる「学者的」経済学研究の書と一線を画し、人類史の推進動力としての階級闘争をその経済的基 礎において解明し、現代における階級闘争の進展と決着はいかなるものであるかを論じた書であるがゆえに、その評価は常に 評価する者の政治的、経済的立脚点を逆に明らかにするものとして表れてきた。 従来、資本論的内容を否定する者も、また一見肯定するかのように語る者も、資本論を現在においては直裁に適用できない ものであるという点では一致を見ていた。しかし、現在私たちの目の前で進行する事態は、いくつかの決定的確認に踏まえる ならば、資本論の内容が基本的に現代の社会に適用できるものであることの方をこそ明らかにしている。してみれば、従来の 「常識」における資本論の評価はおしなべて破産している、ということである。 このような現実に対応し得ない「常識」を打ち破って資本論の本当の内容を復権することは、社会科学を真に実践的な学と して確立することを志す現代の学生諸氏に課せられた基本任務であろう。本冊子はその問題意識のもとに開催された全国学生 理論合宿の成果が広く世に打ち出され、批判的検討のもとにさらに前進していくための一助として作成されたものである。 ただし、本冊子作成の全責任は、その発行主体であるわれわれ京都大学社会科学研究会が負っている。ゆえに、合宿におけ る提起、討論の内容が読者諸氏に十全と伝わらぬことがありえるとしたら、それはまた、やはりわれわれの責任によるところ である。 そしてわれわれは、カール・マルクスがそうであったように、自らの責任による著作に対する科学的批判をいつでも歓迎す る。 京都大学 社会科学研究会 1 【はじめに】 T.『資本論』でわれわれの闘いを武装しよう。 提起の冒頭に、なぜ『資本論』を学ぶのか、この時代に『資本論』を取り上げることがどういう意味を持 っているのか、ということをはっきりさせたい。 2008年 9月のリーマンブラザーズ破綻を契機とする、世界大恐慌の進展は、資本主義的生産様式の歴史 的命脈が完全に尽き果てたことを突き出している。 全世界の労働者階級に戦争と大失業の攻撃が襲いかかり、その中で労働者階級は資本家階級に対する、資 本主義的生産様式の相対に対する闘いに立ち上がっている。深刻な財政破綻状況に陥っているギリシャでは この半年の間に250万人(人口の4人に1人)が参加するゼネストが波状的に闘われている。またポルト ガルの首都リスボンで公務員の大ストライキがおきている。米カリフォルニア州の労働者・学生は教育の民 営化に対するストライキに決起し、この闘いには日本の全学連やドイツの学生が合流した。労働者階級が団 結して立ち上がり、資本主義を倒してプロレタリア世界革命を完遂する時代が到来している。 「社会はブルジョアジーのもとでは、これ以上生きていくことはできない。ブルジョアジーの存在は、も はや社会とはあいいれない」(『共産党宣言』) 資本主義が土台から崩壊しはじめている。まさに今、世界大恐慌を革命に転ずる決戦のただ中である。資 本家階級と労働者階級のむき出しの激突で一切が決せられていく時代がきた。われわれの階級的任務は、帝 国主義の最弱の環である日本帝国主義を打ち倒し、プロレタリア世界革命の突破口を切り開くことだ。2010年、国鉄決戦、法大決戦の爆発で最末期の資本主義に引導を渡して革命をやろう。 いっさいは、われわれが真に労働者・学生の怒りを結集する軸になることができるかどうかにかかってい る。絶対反対・階級的団結・組織建設を貫く資本との絶対非和解の闘いで、6000万労働者階級・2000万青年労働者・300万学生を獲得し、労働運動・学生運動の真の主流派へ踊り出よう。党と労働組合の 一体的建設をかちとり、革命的労働者党を建設しよう。 そうした階級闘争における労働者階級の決定的武器は、マルクス主義だ。マルクス主義とは、端的に言っ て労働者階級の理論だ。その核心は、労働者階級にこそ、資本主義社会を根底から打ち倒し、革命をやる力 があるということをハッキリさせていることだ。 労働者階級は自らを解放し、全人間を解放する力をもっている。このことに理論的にも確信をもつことが 決定的だ。そうしたときに労働者階級は、ものすごい力を発揮する。 大恐慌を革命に転化する闘いを本格的にやりぬいて勝利するために、今こそ『資本論』で武装しよう。『資 本論』こそが、たたかう労働者・学生の最も根底的な武器である。『資本論』においてマルクスは、資本主義 的生産様式の支配する、資本主義という社会の根底からの批判をなしとげた。資本主義とはいかなる社会か。 資本主義的生産様式とはいかなる歴史的な独自性をもった社会形態なのか。そもそも資本とは何か。資本主 義の基本矛盾は何であり、どのように展開されるのか。そのことを暴きだすために、資本主義的生産様式の 総体を全面的に、徹底的に対象化したのだ。 そのことによって、資本主義的生産様式によって支配される資本主義という社会は、永遠の社会などでは なく、ひとつの歴史的形態であり、労働者階級がこの社会を根本からひっくり返すことができる、そして自 分自身を解放して階級社会を終わらせることが絶対にできる、それが労働者階級の歴史的使命だということ を科学的な根拠をもって明らかにしたのだ。それは『共産党宣言』で提起した命題に確固たる証明を与え、 さらに命題そのものを深めていくものであった。 したがって、『資本論』は現代に生きる「革命の書」である。これによって、労働者階級は資本家階級を打 倒して革命をやることができるという根源的な力と確信を、階級の中に打ち立てることができる。そして、 真の勝利にむかって前進することができるのである。マルクス主義の力とはそういうものだ。大恐慌の時代 2 に、『資本論』で武装することが、どれほど決定的な意味をもっているか、ということだ。『資本論』―マル クス主義を今こそ労働者階級の手に取り戻そう。 本文の提起に入っていく前に、前提的に『共産党宣言』で出された資本主義の基本矛盾とその解決につい て確認しておきたい。資本論は、次の命題の証明を資本主義の全運動の解明から与えるということを目的の 一つとしている。だから、『共産党宣言』は『資本論』に対しては、先んじて結論を確認する位置関係にある。 「ブルジョアジーの成長の土台となってきた生産手段と交通手段は、封建制社会のなかで形成されたも のであるということだ。こうした生産手段と交通手段がある発展段階に達すると、封建制社会が生産と交 換をおこなっていた諸関係、農業と工業の封建的な組織、ひとことで言って封建的な所有諸関係は、すで にそれまでに発達してきていた生産諸力と、もはや対応しきれなくなった。封建的な所有諸関係は生産を 促進するのではなくて、阻害するにいたった。発展の結果、それは束縛に変わってしまったのだ。封建的 な所有諸関係は、粉砕されるべくして粉砕された。」 ※資本主義は歴史的発展の産物。以前の生産様式の生成・発展・没落の結果である。 「われわれの目の前で、同じような運動が進行している。ブルジョア的な生産諸関係と交通諸関係、ブ ルジョア的な所有諸関係、つまりこの巨大な生産手段と交通手段を魔法のように呼びだした近代ブルジョ ア社会は、自分で地の底から呼びだした魔物をもはや制御できなくなった魔法使いに似ている。」 ※資本主義もまた生成・発展・没落の運動の中にあり、その没落も始まっている。 「商業恐慌では、既存の生産物の大部分だけでなく、既成の生産諸力の大部分までもが定期的に破壊され る。恐慌のなかで社会的疫病が発生する。これまでのあらゆる時代にはおよそ不合理としか思えなかった ような疫病、すなわち過剰生産という疫病である。社会は、突然、一時的に未開状態にひきもどされたか のような状況になる。飢餓や全社会的な破壊戦争がおこり、社会がすべての生活手段から切断されてしま ったかのようになり、工業と商業も破壊されてしまったかのようだ。」 「なぜそうなるのか?それは、あまりにも過剰な文明、あまりにも過剰な生活手段、あまりにも過剰な 工業、あまりにも過剰な商業が、この社会に存在するからである。社会の手のなかにある生産諸力は、も はやブルジョア的所有諸関係を発展させていくのに役立たなくなったのである。逆に、生産諸力はこのブ ルジョア的所有諸関係にとって巨大になりすぎ、こうした諸関係によって制動を加えられているのだ。そ して、この生産諸力がこうした制動を突破したとたんに、ブルジョア社会全体が無秩序のなかに投げ込ま れ、ブルジョア的所有の存立が脅威にさらされる。」 ※資本主義的生産様式の矛盾は、その生産力の発展が、現在の所有関係に収まらないほどに大きくなる ことにある。発展そのものが資本主義の矛盾を生み出す。 「ブルジョア階級の存在と支配にとってのもっとも本質的な条件は、私人の手のなかに富が集積される こと、つまり資本の形成と増殖である。そして資本の条件は賃労働である。」 ※資本主義における生産と所有の矛盾は、資本の運動そのものの中にある。そして資本の運動は賃労働を 存立の条件としている。ゆえに、「賃労働と資本」の関係を解き明かすことは眼前のあらゆる社会矛盾を 根本的に解明するための基礎をなしている。 「賃労働はもっぱら労働者間の競争にもとづく。工業の進歩は、〔資本の論理にたいして〕無意志・無抵 抗なブルジョアジーによってになわれているが、競争による労働者の孤立化ではなく、組織による労働者 の革命的団結をもたらす。こうして大工業の発展とともに、ブルジョアジーの足元から、かれらが生産し、 その生産物を取得していた土台そのものが取り払われる。ブルジョアジーはなによりも自分たち自身の墓 掘り人を生みだす。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、いずれも不可避である」 ※資本の論理に「無意思・無抵抗なブルジョアジー」は、「組織による労働者の革命的団結」を生み出し、 それによって打ち倒される。人間が客体化され、政治的に次々と被指導者になっていくことで維持され 3 る資本の運動は、それを意識的にのりこえ、次々と政治的指導者へと成長する労働者階級の闘いによっ て積極的に止揚される。 U.『資本論』とは何か。何のために書かれたのか。 ・『共産党宣言』と『資本論』 『資本論』は、1848年『共産党宣言』以来のマルクスの闘いの集大成であり、ついにたどりついた結 論である。 資本主義の発生とともにプロレタリアートが登場する。マルクス主義は、このプロレタリアートの激しい 闘いの中から生まれた。 「プロレタリアートすなわち近代の労働者階級は、労働(仕事)があるかぎりで生きることができ、そ の労働が資本を増殖するかぎりで労働にありつける」(『共産党宣言』) 「プロレタリアートのブルジョアジーにたいする闘争は、その存在とともに始まる」(『同上』) 『共産党宣言』執筆の以前、マルクスはヘーゲル左派に分類される哲学青年として出発するが、当時のヨ ーロッパで勃興したプロレタリアートの存在と闘いに肉薄することで、労働者階級の闘いの中にこそ、社会 を変革する根源的な力があることをつかんでいった。そして、エンゲルスとの共同の作業によって執筆され た『ドイツ・イデオロギー』において現実の社会を変革することを提起できないドイツの観念論哲学と決別 し、実践的唯物論者としての立場を確立する。 「哲学者たちは世界を様々に解釈してきたに過ぎない。だが大切なことは世界を変革することである」 マルクスとエンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』と一体で書かれた『フォイエルバッハ・テーゼ』の最 後の一文でこのように自らの立場を宣言し、現実の革命運動に突入していく。そして1848年の革命的激 動のただ中で、『共産党宣言』を発行。「労働者階級には資本主義を打倒して革命をやる力がある」というこ とを公然と宣言する。 『共産党宣言』は、資本主義社会は階級対立にもとづく歴史的な一社会形態であること、資本主義はもう 行き着くところまで行き着いてあとはもう労働者階級によって打ち倒される以外にない体制であること、資 本主義の基本矛盾は目の前で恐慌となって爆発していること、もはや一刻も早く資本主義を倒してプロレタ リア革命の勝利、共産主義をかちとっていくことが労働者階級の歴史的使命であることを力強く提起した。 それは同時に、資本主義を肯定し弁護するブルジョア・イデオロギーとの激しい党派闘争・イデオロギー闘 争そのものであった。 しかし、48年の革命はブルジョアジーと国家権力によって徹底的に弾圧され、革命はいったん挫折する。 マルクスは、それから約20年をかけて「古典派経済学」との徹底的な対決に突入する。労働者階級は資本 主義を打ち倒し、社会を根本から革命することができるということを、理論的な根拠をもって打ち立てるた めには、古典派経済学との徹底的な対決が必要であった。なぜならば、スミスやリカードなどの古典派経済 学者たちはこの資本主義社会こそ、ついに人類が到達した究極の社会であるということを理論化し、ブルジ ョアジーの支配に不動の確信を与えていたからだ。 『資本論』は、このブルジョアジーを支える理論を完膚なきまでに粉砕するために書かれた。それをなし えないと労働者が本当に階級的確信をもって資本主義社会を打ち倒すことができないということを、マルク スは自覚していたのだ。 これはまさに今労働者階級が直面している問題でもある。われわれが資本と闘おうとするときに決まって 資本が口にする言葉は、 「私たちは皆さんに正当な対価を払って働いてもらっているのであって何も強制はし ていません。嫌ならやめる自由があります」などということだ。これを打ち破らなくては労働者は階級的に 立ち上がることができない。われわれは資本主義のなかで生きてきた。その中ではあたかも資本主義こそが 4 人間社会としての自然な社会形態であるかのようなイデオロギーがくり返し生み出されている。 われわれは闘いに勝利していくために、資本家のデタラメなイデオロギーを完膚なきまでに粉砕する労働 者の理論を持たなければならないのだ。 48年の徹底的な弾圧によっていったんは完全に叩きつぶされたかに見えた労働者階級の闘いは、1860年代にもう一度、巨大なうねりとなって全ヨーロッパを覆い尽くしていく。マルクス自身、その最先頭で 国際労働者協会(第1インターナショナル)の結成にかかわっていくが、その中で48年革命の敗北を徹底 的に総括し、「労働者階級の解放は労働者自身の事業である」(第1インターナショナル規約序文)という原 則が高々と掲げられる。マルクスはこうした闘いのただ中で、今度こそ資本主義を倒して労働者の社会をつ くる、それは絶対に可能なんだと言い切っていくための理論としての『資本論』へと上りつめていった。そ して、『資本論』第1巻が1867年に発行される。その4年後の1871年にはパリで歴史上はじめて労働 者階級の政治権力が打ち立てられる。 つまり、『資本論』が時代のなかでどんな意味を持っていたかをとらえるならば、単に学問として秀逸なも のを書いたということには収まらないことは言うまでもない。労働者階級に根源的に力と確信を与えるため に書かれたのだ。 それは、『宣言』で示された資本主義社会にたいする革命綱領の立場から資本主義社会の仕組みと構造を徹 底的に暴き、プロレタリア革命=共産主義の必然性、その物質的条件の現実的存在を科学的に基礎づけたの である。そうすることによってプロレタリア革命運動の理論的・思想的・綱領的な基礎、支柱を唯物論的に 打ち立てようとした革命家マルクスの苦闘の結晶が『資本論』だ。そして、この『資本論』が労働者階級の 血となり肉となることによって、労働者階級は根底的かつ徹底的な確信をもって資本主義の打倒、プロレタ リア革命=共産主義に突き進んでいくことができるのだ。 V.スターリン主義を打倒し、マルクス主義をわれわれの手に取り戻そう 「大恐慌を革命へ」を実践する本格的な第一年としての2010年決戦の渦中においてこそ、スターリン 主義をわれわれ自身の手で打倒し、マルクス主義を階級の中に復権しよう。その第一弾として、『資本論』に 挑戦する。歴史を切り開くのは、ほかでもなくわれわれ青年・学生だ。 われわれが資本主義を打ち倒し、現代における革命に勝利していくためには、スターリン主義の打倒が不 可欠だ。1917年ロシア革命によって世界革命の過渡期が現実に切り開かれながら、世界革命はスターリ ン主義によって裏切られ、マルクス主義が根本から歪曲されてきた。この現実と真正面から対峙し、スター リン主義を打倒して、マルクス主義を階級の中に取り戻さなければ労働者階級は勝利をかちとることができ ない。 スターリン主義とは何か。ロシアにおけるプロレタリア革命の勝利によって、帝国主義の一角が現実に打 ち倒され、世界史は世界革命の過渡期に突入した。しかし、革命ロシアが直面した困難性のまえに屈服する 潮流が生み出された。それがスターリン主義である。スターリン主義は革命の重畳的困難からの逃亡を居直 り、トロツキーをはじめとした左翼反対派を次々と粛清するなかで「一国社会主義路線」を決定し、もって 世界革命を放棄していった。それはプロレタリアートの自己解放性・革命性を徹底的に否定・抑圧するもの であった。国際共産主義運動の内部から現れたこの反革命的疎外態は、全世界の共産党を「革命をやらない 共産党」へ変質させ、世界革命を裏切っていった。そしてソ連は、第2次世界大戦に真っ向から反対して資 本主義を倒すために闘うのではなく、帝国主義と肩を並べて「強盗どもの戦争」に参戦し、その戦争が正当 であるかのような装飾を施していく。こうしたスターリン主義のとてつもない裏切りによって資本主義・帝 国主義は戦中・戦後における世界革命の激浪をかろうじて乗り切り、延命する。 スターリン主義はその矛盾を爆発させ、自己崩壊したとはいえ、いまだに労働者階級自身によって主体的 に打倒されたとはいえない。未だ労働者階級への害毒を撒き散らしている。その核心は、「労働者階級に革命 をやる力がある」というマルクス主義の根本を100年近くにわたって完全に破壊し続けていることだ。労 5 働者階級は資本主義を倒すことはできないという思想を、階級の中から一掃し、スターリン主義を打ち倒す ことがマルクス主義の復権にとって何より決定的だ。スターリン主義は、労働者階級の立場から資本主義社 会を根底的に対象化してこれをひっくり返す力が労働者にあるということを絶対に言わない。そうではなく、 一般的な歴史発展の法則にすり替える。だから、スターリン主義は絶対に『資本論』を真正面からは提起で きない。そして、ただただ「人間の歴史は、奴隷制社会―封建制社会―資本制社会―社会主義社会に区分さ れます。このように交代していくのが社会発展の法則です。生産力が高くなれば自然と次の社会に交代しま す」と講釈を垂れるだけだ。現実を変革する主体はどこにもいない。労働者階級にこそ歴史を動かし、社会 を変える力があることを否定しているのだ。 マルクス主義とは、断じてそんなものではない。現実の資本に対する闘いのなかで形成される労働者階級 の団結こそ、資本主義を打ち倒し、歴史を作る力なのだ。スターリン主義はこの核心を解体し、単なる機械 的な歴史の区分にしてしまう。そして、労働者階級の闘いを国ごとにバラバラに機械的に分解して、労働者 の国際的団結を徹底的に破壊する。絶対に許すことはできない。 労働者階級の解放は、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命によってこそ成し遂げられる。反スター リン主義を徹底的に貫き、マルクス主義を自らの思想・綱領に徹底的に据えきろう。これを現実の階級闘争 の戦場のなかで半世紀にわたって貫き、その最高の結晶として動労千葉労働運動を生み出し、「綱領草案」を かちとったところに革命的共産主義運動の巨大な到達地平がある。これが、今日世界を獲得する最大の力と なっている。 この地平に断固として立ちきり、階級的労働運動・学生運動の白熱的な推進と一体で、マルクス主義を階 級の中に打ち立てよう。この大飛躍をかけて『資本論』に挑戦しよう。「資本主義の終わり」―革命的情勢の 到来という時代においてこそ、スターリン主義によって解体されてきたマルクス主義を取り戻すことが決定 的だ。『資本論』を武器として、「労働者階級は資本主義を倒してこの社会を根本から変える力がある」とい う階級的確信を巨万の労働者・学生のものにしよう。 ・不破「マルクスは生きている」の反革命性 W.『資本論』をどう読んでいくか。 『資本論』を読むことをとおして、労働者にこそ資本主義を倒して革命をやる力があるということを確信 し、労働者・学生の自己解放的エネルギーを引き出していく。そして、われわれの闘いを強化・拡大させて その力で資本家・国家権力・体制内派を圧倒し、プロレタリア革命に勝利していこう。 今、全世界の労働者階級が闘っているのは、資本に対してである。国や肌の色、地域、産別が違っても敵 は資本である。法大闘争は資本の「営業権」攻撃そのものとの激突に突入している。「営業権」との闘いは、 すべての階級闘争の最先端であり、普遍的な闘いだ。この闘いに真に勝利するには、資本とは何かを理解す ることが必要だ。そして、資本主義を支えているブルジョアイデオロギーを完膚なきまでに粉砕しなければ ならない。そのための最大の武器が『資本論』だ。 ついに革命の時代がきた。労働者・学生が自らの闘いに不抜の確信を持ち、次々と新たな仲間を結集して 闘争に勝利していく武器として、『資本論』を学習していこう。そういう読み方をわれわれ自身の手で作り出 すということだ。『資本論』の平明なパンフレットである『資本と労働』を著したドイツの革命家ヨハン・モ ストがそうしたように、労働者階級の立場から、労働者的感性で『資本論』を読んでいく。 膨大な労働者・学生を『資本論』―マルクス主義で獲得して革命をやろう。 限られた時間の中で、マルクスが言わんとしたガイストをつかんでいくような提起と、討論を行いたい。 6 資本論の構成(目次) ■第1部資本の生産過程 第1篇 商品と貨幣 第1章 商品 第2章 交換過程 第3章 貨幣または商品流通 第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化 第3篇 絶対的剰余価値の生産 第5章 労働過程と価値増殖過程 第6章 不変資本と可変資本 第7章 剰余価値率 第8章 労働日 第9章 剰余価値率と剰余価値量 第4篇 相対的剰余価値の生産 第10章 相対的剰余価値の概念 第11章 協業 第12章 分業とマニュファクチュア 第13章 機械と大工業 第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産 第14章 絶対的および相対的剰余価値 第15章 労働力の価格と剰余価値との量的変動 第16章 剰余価値率を表す種々の定式 第6篇 労賃 第17章 労働力の価値または価格の労賃への転化 第18章 時間賃金 第19章 出来高賃金 第20章 労賃の国民的相違 第7篇 資本の蓄積過程 第21章 単純再生産 第22章 剰余価値の資本への転化 第23章 資本主義的蓄積の一般的法則 第24章 いわゆる本源的蓄積 第25章 近代植民理論 7 ■第2部資本の流通過程 第1篇 資本の諸変態とその循環 第2篇 資本の回転 第3篇 社会的総資本の再生産と流通 ■第3部資本主義的生産の総過程 第1篇 剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化 第2篇 利潤の平均利潤への転化 第3篇 利潤率の傾向的低下の法則 第4篇 商品資本および貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化(商品資本) 第5篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂 利子生み資本 第6篇 超過利潤の地代への転化 第7篇 諸収入とそれらの源泉 8 ■第1部資本の生産過程 第1篇商品と貨幣 ●資本論冒頭の文章 「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現れ、 一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる」 ※これが『資本論』の冒頭である。この文章は、ものすごい意味をもっている。 資本主義は一つの巨大な商品の集まりであり、その一つひとつの商品は、その富の基本形態である。商品 は「経済的細胞形態」とも言っている。 マルクスは、商品の集合体としての資本主義社会を、その「経済的細胞」である商品から解き明かし、資 本とは何かを科学的にとらえつくした。このことをとおして、資本主義社会を丸ごとひっくり返すという考 え方・思想を、単なる主観的願望ではなく、唯物論的な、科学的認識にもとづいて打ち立てることが可能と なったのだ。 このことの意味ははてしなく大きい。ついに被支配階級である労働者階級が、自らの理論を持った、とい うことだ。被支配階級としては歴史上はじめて自らの理論を持ったのだ。労働者階級が自らの理論を持つと いうことは、資本主義を倒して自分自身を解放し、社会の主人公となる力が、労働者階級自身のなかにある ということだ。『資本論』は、その全3巻をとおして、資本とは何か、資本主義社会とは何かを、手にとるこ とができるようにつかみとり、科学的に対象化した。そのことによって、労働者階級が資本主義を丸ごと打 ち倒して社会の主人公になることができるという根源的な確信をかちえたのである。 これまでの人類の社会で、社会の富が「商品の集まり、集合体」となった社会は資本主義社会がはじめて である。本来人間の肉体と切り離すことのできない、つまり、商品とはなりえない労働力が商品とされるこ とによって、すべてのものが商品として生産され、社会全体が商品の巨大な集まりとなる。階級関係が商品 の売り手と買い手の関係というこれ以上に単純になることのできない形にまで単純化された。 これは何を意味するか。資本主義は封建社会などと根本的に異なり、政治権力による暴力的収奪などの迂 回経路を捨象しても、剰余労働の搾取が成立しうるという私有財産制度の純粋な形態、つまり完成された私 有財産制度であるということだ。それは同時に歴史上最後の階級社会だということだ。 この最後の階級社会としての資本主義を打ち倒すためには、労働者の階級的団結こそが一切を決する。労 働者が商品として分断されているあり方をうち破り、階級的に団結すれば資本主義社会を倒し、労働者階級 が真に生産と社会の主人公となって階級社会を終わらせることが現実に可能なのだ。これが労働者階級の持 っている力であり、歴史的使命だ。『資本論』の全体系はそのことの証明である。 「労働者の闘争のほんとうの成果は、直接の成功にあるのではなくて、労働者の団結がますます広がっ ていくことにあるのだ。」(同上) 「一切のかぎは、資本の支配のもとで徹底した分断と競争にさらされている労働者が、この分断を打ち 破って階級としてひとつに団結して立ち上がることにある。この団結の発展の中に、奪われてきた人間本 来の共同性が生き生きとよみがえってくる。これこそが労働者階級のもつ本当の力である。社会を変革す る真の力はここにある」(「革共同綱領草案」) 9 ●「第1篇商品と貨幣」は、何のために書かれているか。 『資本論』の本題は、資本とは何かを徹底的に理解することだ。そのための前提として、商品―貨幣―資 本の関係を一体でつかむことが決定的だ。 『資本論』の学習においては、ここの難しさをどう突破するかが問題となってきた。マルクス自身、『資本 論』の序文で「何事も最初が一番難しい」と指摘している。われわれはこの「商品と貨幣」の難解性を打ち 破って「資本とは何か」という本筋に入っていかなければならない。ゆえに「資本とは何か」ということを 徹底的に軸において、そのことの決定的な基礎をなす展開として商品、貨幣とは何かということをつかみと っていくことを前提的に確認しておきたい。 第1篇はまた、スミスやリカードなどの古典派経済学の限界を突破し、労働者階級の立場から資本主義社 会を根底的にとらえつくす理論を打ち立てるためにも、絶対に必要だった。古典派経済学は、資本主義社会 を、始まりがあって終わりがある一つの歴史社会として客観的にとらえることができず、人類が到達した究 極の社会としてとらえた。このブルジョア経済学を根本から批判し、労働者階級の革命思想を確立するため には、『資本論』の全体系が必要であり、とりわけ「商品と貨幣」を解明して商品―貨幣―資本の関係を一体 でつかむことが必要だった。 以下、「第1篇商品と貨幣」の核心部分に絞って提起する。核心は、商品―貨幣―資本の関係をバラバラ にではなく一体のものとしてつかんでいくということだ。資本の運動の総体を理解するためには、そのこと が必要だ。 <商品の二つの属性使用価値と価値> ある生産物が商品となるためには、まず第一に、「外的対象であり、その諸属性によって人間のなんらかの 種類の欲望を満足させる物」、すなわち使用価値でなければならない。 「ある一つの物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮いているのでは ない。この有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄 や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが、使用価値または財なのである」 使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。資 本主義社会にあっては、使用価値は同時に交換価値の素材的な担い手である。 自分で消費するために生産されたものは、商品たりえない。商品を生産するためには、他人のための使用 価値、社会的使用価値を生産しなければならない。そして、他の種類の使用価値と交換されなければならな い。そのときに、どのような割合で交換されるのかという形で現れるのが商品の交換価値である。 <価値の実体価値量> 異なる使用価値が交換される場合、一体何を基準にその量的関係、割合が決まるのか? たとえば鉄と小麦がある一定の割合で交換されるとする。そのときに成立する鉄と小麦の間の等式はなに を意味しているのか?同じ大きさの一つの共通物が、鉄と小麦という二つの違った物のうちに存在すると いうことである。だから、両方ともある一つの第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自 体としては、その一方でもなければ他方でもない。この共通なものは、商品の自然的な属性ではありえない。 商品の使用価値、すなわち具体的な有用性を問題にしないことにすれば、商品体に残るものは、ただ労働 生産物という属性だけである。これらの物が表しているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されてお 10 り、人間労働が積み上げられているということだけである。 労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表されている労働の有用性は消え去る。したがってまた これらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はすべてことごとく同じ人間労働に、抽象 的人間労働に還元されている。このことは貨幣による商品購入を考えれば非常に簡単である。いかなる使用 目的をもっている商品であっても、それらは一定の貨幣額で表現されている。すべての商品がそれぞれの具 体的な中身とは独立して価格の量的な大小で比較されるだけになっている。 商品価値の量的大きさは、社会的に必要な労働時間によって規定される。ここで社会的な労働力というの は、発展した分業のもとではおのおのの個人的な労働力は、もはや社会的な労働力の一つの構成部分として 作用するにすぎないからである。個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、 このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、また は社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。ある商品に 対象化されている平均労働が多ければ多いほど、この商品の価値はそれだけ大きい。 <商品価値の展開された形態―貨幣形態> 「諸商品は、それらの使用価値の雑多な現物形態とは著しい対照をなしている一つの共通な価値形態貨 幣形態をもっているということだけは、だれでも、ほかのことはなにも知っていなくても、よく知って いることである。しかし、いまここでなされなければならないことは、ブルジョア経済学によってただ試 みられたことさえないこと、すなわち、この貨幣形態の生成を示すことであり、したがって、諸商品の価 値関係に含まれている価値表現の発展をその最も単純な最も目だたない姿から、光まばゆい貨幣形態に至 るまで追跡することである。これによって同時に貨幣の謎も消え去るのである」 資本主義を絶対のもの、永遠のものとしてしか見ることができなかった古典派経済学は、商品と貨幣とは あらかじめ与えられた、バラバラに存在するものと思い込んだ。 貨幣とは何か。それは、商品とは別にあるものではなく、それ自身、一商品である。貨幣とは、商品の価 値の展開された形態にすぎない。 では、いかにして一商品があらゆる商品と直接に、無条件に交換できるという形態、すなわち貨幣形態を とるのか? その萌芽は、最も単純な価値関係のなかにある。 「商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立によって、すな わち二つの商品の関係によって表されるのであるが、この関係のなかでは、自分の価値が表現されるべき ........................ 一方の商品は直接にはただ使用価値として認められるのであり、これにたいして、それで価値が表現され ........................ る他方の商品は直接にはただ交換価値として認められるのである。つまり、一商品の単純な価値形態は、 その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである」 「労働生産物は、どんな社会状態のなかでも使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、 ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の『対象的』 な属性として、すなわちその物の価値として表すような発展段階だけである」 商品のなかに使用価値と価値の二重性があることはすでに確認した。商品は、それ自身によってはこの矛 盾を解決することはできない。商品は、自分の価値を自分自身の現物形態で表現できない。ある商品が、価 値を表現するためには、必ず別の商品に、自分の価値を見えるようにする鏡でもあるような価値物としての 役割を担わせる。言い換えれば、社会的労働の化身としての役割を、別のある商品の現物形態に担わせる。 これによってはじめて価値を表現できる。 この価値形態の発展として、あらゆる商品と、直接に無条件に交換可能であるばかりでなく、他のすべて 11 の商品にとって、共通の価値表現のために役立つという機能が、ある商品の機能となる。これが貨幣商品で ある。価値がこのように展開することによって、はじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させる。商 品交換の一般化につれて、この役割は金銀に、すなわち生まれながらにこの役割に最も適している商品種類 に移っていく。商品価値が、諸商品そのものに対立して貨幣というかたちで独自化する。 ※ 商品交換を代表する地位にある貨幣に必要な機能は、それの生産にこめられた労働量を測定するのが 容易であり、また他のあらゆる価値量とも交換されるように分割されることが必要であり、連続する 交換に耐える性質をもっている必要がある。金と銀は、そのいずれもの条件を、他のどの商品よりも 満たしているのである。 <商品の呪物的性格とその秘密> 商品は人間の労働生産物でありながら、それらの物の自己運動が、人間を制御し、支配する。この転倒そ のものの解明の中に、それを止揚する鍵がある。商品に独立した力があるかのような外観を呈する商品経済 の本質はなにか? 「労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか?明らかにこの形態 そのものからである」「商品形態の秘密はただ単に次のことのうちにあるわけである。すなわち、商品形 .................................. 態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、こ れらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関 ...................... 係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。これらの置き換えに よって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物になるの である」 およそ何らかの使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的な諸労働の生産物である からにほかならない。これらの複合体が社会的総労働をなす。ある生産物が自家消費のために生産されるの であれば商品にはならない。各々の生産物は、各人の私的生産物でありながら、同時に、社会的生産物であ る。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになる。彼らの私 的な諸労働の社会的な性格もまたこの交換においてはじめてあらわれる。私的諸労働は、交換によって労働 生産物がおかれ、労働を介して生産者たちがおかれる諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の一部 をなすものとして実証される。 ある労働生産物が商品として生産されるとき、これらの私的諸労働は二重の社会的性格をもつ。それは、 一面では、一定の有用労働として一定の社会的欲望を満たさなければならず、そのようにして自分を社会的 分業の一部をなすものとして実証しなければならない。他面では、私的労働のそれぞれが別の種類の有用な 私的労働のそれぞれと交換可能であること、したがって別々の種類の有用な私的労働との同等性が認められ るということである。すなわち、人間の労働力の支出、抽象的人間労働としてもっている共通な性格に還元 されるということである。 「生産物交換者たちがまず第一に実際に関心をもつのは、自分の生産物とひきかえにどれだけの他人の 生産物が得られるか、つまり、生産物がどんな割合で交換されるか、という問題である。この割合がある ........................................... 程度の慣習的固定性をもつまでに成熟してくれば、それは労働生産物の本性から生ずるかのように見え . る」 ........................... 「交換者たち自身の社会的運動が彼らにとっては諸物の運動の形態をもつのであって、彼らはこの運動 ..................... を制御するのではなく、これによって制御されるのである。互いに独立に営まれながらしかも社会的分業 12 の自然発生的な諸環として全面的に互いに依存しあう私的諸労働が、絶えずそれらの社会的に均衡のとれ ........ た限度に還元されるのは、私的諸労働の生産物の偶然的な絶えず変動する交換割合をつうじて、それらの .................... 生産物の生産に社会的に必要な労働時間が、たとえばだれかの頭上に家が倒れてくるときの重力の法則の .................................. ように、規制的な自然法則として強力的に貫かれるからである、という科学的認識が経験そのものから生 ................................... まれてくるまでには、十分に発展した商品生産が必要なのである。それだから、労働時間による価値量の ............................. 規定は、相対的な商品価値の現象的な運動の下に隠れている秘密なのである。それの発見は、労働生産物 の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかしけっしてその物的な形態を解消させはし ない」 商品交換関係によって、労働は直接の生産者から外化され、生産者は交換者としてしか自分達の社会的生 産物に関与することができなくなる。そして発達した商品交換関係の中では、個別の交換者はこの商品交換 の運動を制御するのではなく、その運動そのものによって制御されるかのようになる。商品の交換割合は需 要と供給の均衡によって規制され、この運動に交換者も規制される。しかし、商品交換が発達すれば、需要 と供給は偶然性を失い、一定の範囲に収まっていく。そうなることによって労働生産物の価値とは、その生 産にこめられた社会的労働時間であることがハッキリしてくる。商品交換は、各人の労働がどれほどの価値 を生み出しているのかということを社会的にハッキリさせる基盤をつくる。ただし商品交換関係の中で明ら かにされた生産物の価値規定の真実は、商品交換関係のなかではその表面的現象である需要供給関係による 価格決定を取り除きはしない。それどころか商品交換関係は、本質と外観との矛盾を、外観の側が本質であ るかのような運動を通して解決しようとすることで、解決不能な矛盾に陥るのである。 .................. 「社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人 .......................................... 間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである」 ここでは、早くも資本論全体を貫く結論が出されている。つまり、商品交換関係は、各人の労働が交換を 通してその価値を明らかにし、そうする事によって各人の活動がますます社会的になっていくという関係を うみだしたのであるが、交換関係そのものの中に含まれている矛盾によって、本質は現象の下に隠されてい る。これを解き放つのは、資本主義的生産関係によって発達した商品交換によって明らかになった労働の社 会的性格にふまえ、生産と交換の総過程を人間の意識的な制御のもとにおくということである。需要と供給 の均衡によって価格が決定され、その下に隠された形で生産物の価値が現れてくるという商品交換の法則、 すなわち価値法則。この価値法則の意識的廃絶(=資本の積極的止揚)こそ、資本論の核心であり、プロレ タリア革命の核心である。 「商品世界の完成形態―貨幣形態―こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的労働者の社 会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」「このような諸形態こそ はまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである」 ※つまり、ブルジョア経済学は、労働の外化を本質と取り違えているのである。 「経済学は、不完全ながらも、価値と価値量とを分析し、これらの形態のうちに隠されている内容を発 見した。しかし、経済学はなぜこの内容があの形態をとるのか。つまり、なぜ労働が価値に、そしてその 継続時間による労働の計測が労働生産物の価値量に、表されるのか、という問題は、いまだかつて提起し ............................. たことさえなかったのである。そこでは生産過程が人間を支配していて人間はまだ生産過程を支配してい ............................................... ない社会構成体に属するものだということがその額に書かれてある諸定式は、経済学のブルジョア的意識 ..................................... にとっては、生産的労働そのものと同じに自明な自然必然性として認められている」 資本主義を永遠のものと観念したブルジョア経済学は、そもそも商品とは何か、貨幣とは何かを把握する 13 ことができなかった。人間の労働が社会的に同等性をもつということ、その大きさは労働の継続時間によっ て計られるということ、そしてこの労働において人間は社会的関係を取り結ぶ。 商品とは、これが物的形態として現れたものにすぎない。こうして、あたかも人間自身の労働の社会的性 格があたかも労働生産物そのものに備わる性格であり、これらの物の自然属性であるかのように反映し、し たがってまた生産者たちの社会的関係が物と物の関係として反映される。こうして、人間によって作り出さ れた物にすぎない生産物が、人間を支配する力をもっているかのような転倒した観念が生ずる。これを商品 の物神性・呪物性という言葉で呼んでいる。しかし、こんな社会は、そもそも人間社会として根本から転倒 しており、労働者階級はこんなものに縛られなければ生きていけない存在では断じてないのだ。 にもかかわらず、それまでのブルジョア経済学は、こうした商品経済社会こそ人間がどんな社会形態にお いても不断に行わなければならない生産的労働と同じような、永久な自然なものであると思い込んだ。こう した転倒したイデオロギーを、完膚なきまでに粉砕することによって、労働者階級は商品経済社会、すなわ ち資本主義社会を打倒(=積極的止揚)して、労働者が主人公となった社会を建設することが可能となる。 (『資本論』全3巻をとおして、言いたいことの確信がここにある。) <恐慌の可能性> これまで確認してきた生産活動の本質に対する商品経済の転倒性は、資本主義の基本矛盾である。そし て、その矛盾は資本主義の運動の過程では解決することができずに堆積し、不可避的に爆発する。それが 恐慌である。 「流通は生産物交換の時間的、場所的、個人的制限を破るのであるが、それは、まさに、生産物交換の うちに存する、自分の労働生産物を交換のために引き渡すことと、それとひきかえに他人の労働生産物を 受け取ることとの直接的同一性を、流通が売りと買いとの対立に分裂させるということによってである。 独立して相対する諸過程が一つの内的な統一をなしていることは、同様にまた、これらの過程の内的な統 ................. 一が外的な諸対立において運動するということをも意味している。互いに補いあっているために内的には ...................................... 独立していないものの外的な独立化が、ある点まで進めば、統一は暴力的に貫かれる―恐慌というものに よって。商品に内在する使用価値と価値との対立、私的労働が同時にただ抽象的一般労働としてのみ認め られるという対立、物の人化と人の物化という対立―この内在的な矛盾は、商品変態の諸対立においてそ の発展した運動形態を受け取るのである。それゆえ、これらの形態は、恐慌の可能性を、しかしただ可能 性だけを、含んでいるのである。この可能性の現実性への発展は、単純な商品流通の立場からはまだまっ たく存在しない諸関係の一大範囲を必要とするのである」 恐慌というものを、どうとらえるか。恐慌は資本主義としては本来起きない現象であり、資本主義のなか で解決することができる、という浅薄な恐慌論を根底から粉砕する内容である。すなわち、商品のなかに内 在する使用価値と価値との対立、あるいは私的労働が同時に社会的総労働として自らを実証しなければなら ないということ、こうした商品そのものに内在する矛盾と対立にすでに恐慌の可能性が含まれている。内的 矛盾がある一定まで進むと、暴力的に統一が貫かれなければならなくなる。それが恐慌なのである。資本主 義に内在する矛盾から必然的に起きるものであり、それ自身が資本主義の運動形態をなしている。資本論第 1部では、資本主義においては恐慌を解決することは根本的に不可能であるということを、最も根底的な、 本質的次元で把握しているのだ。 この第 1篇「商品と貨幣」の内容の中に、資本主義の運動の基本矛盾とその解決の方向性は出されてい る。すなわち価値法則の意識的廃絶、資本の積極的止揚。これが資本論の結論であり、労働者階級の革命 の核心である。そのことが労働者階級にとって、人類社会にとって絶対に必要であること、不可避である ことの証明は資本論の全体系が成し遂げている。 14 第2篇貨幣の資本への転化 ●資本とは何か ※いよいよ、「資本とは何か」という本題に入っていく。ここまでは言わば、「資本とは何か」に入るための 前置きであり、ここからが本論なのである。 「商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立する ための歴史的な前提をなしている。世界貿易と世界市場とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くので ある」 資本を問題にすることができるのは、商品を生産し、商品流通が存在し、商業が営まれている、そういう 社会においてのみである。資本主義以前にも商品は生産されていた。しかし、社会全体が商品経済となった 社会は、資本主義が歴史上はじめてである。 資本主義社会は、16世紀における近代的な世界貿易と世界市場の創造という世界的な条件のもとで登場 した一つの歴史社会である。そもそも、資本主義は、世界的なひとつの歴史社会として登場したのだ。した がって資本主義を打ち倒す革命は、一国や一部の地域で中途半端に完結するものでは断じてなく、世界的に 登場した一つの歴史社会を全世界の労働者階級の決起によって打ち倒し、終わらせるということ以外にはあ りえない。労働者階級の解放は、プロレタリア世界革命以外にはない。 では、資本とはそもそも何か。資本は、貨幣の一つの使われ方であると説明することができる。(ただし貨 幣のみが資本であるということではない。) ここに貨幣があるとしよう。しかし、その貨幣がそのままの状態で資本になるのではない。貨幣はどのよ うにして資本になるのだろうか? 「貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別さ れるだけである。商品流通の直接的形態は、W―G―W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、 買うために売る、である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわ ち、G―W―Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。 その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、 すでにその使命から見れば、資本なのである」 「ところで、もしも回り道をして同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリン グを100ポンド・スターリングと交換しようとするのならば、流通過程G―W―Gはつまらない無内容 なものだということは、明白である」 「過程G―W―Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのでは なく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである」「この過程の完全な形態は、G―W―G ’ であって、ここではG ’=G+ ΔGである。すなわちG ’は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある 増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値( surplus value)と呼 ぶ」 「最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値 量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。そして、この運 動がこの価値を資本に転化させるのである」 15 「単純な商品流通―買いのための売り―は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足の ための手段として役だつ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値 .... の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。それだから、資本の運 ........ 動には限度がないのである」 ※二種類の流通の形態がある。ひとつは、商品―貨幣―商品、すなわち最初に商品があり、その商品を売っ てから買うという単純な商品流通である。もうひとつは、貨幣―商品―貨幣、すなわち最初に貨幣があり、 商品を仕入れてから売るという貨幣流通の形態である。両者は、一見すると単に順番が入れ替わっただけの 形式的な違いであるように見える。しかし、実はこの違いは、本質的な、ものすごい違いなのだ。 貨幣の媒介によっておこなわれる単純な商品流通。出発点が商品であり、終着点も商品である。これは、 使用価値を目的とする交換である。労働者の行う交換がこれにあたる。すなわち、労働力商品を売って得た お金(賃金)で、パンや飯を買う。食べたり飲んだりしてしまえば、そこで終わり。この単純な商品流通に は限度がある。 商品の媒介によっておこなわれる貨幣流通。出発点が貨幣であり、終着点も貨幣である。これは使用価値 ではなく、価値を目的とする交換である。したがって、どれだけの価値を増殖するかという量のみが問題に なる。貨幣を食べたり飲んだりして使用価値として消費することはできない。終着点として現れる貨幣は、 再び流通のなかに入れられ、なんべんでも同じ運動を繰り返す。つまり、この運動には「限度がない」。 「この運動の意識ある担い手として、貨幣所持者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケッ トは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容―価値の増殖―が彼の主観的目的なので あって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、 彼は資本家として、または人格化され意志と意識を与えられた資本として、機能するのである。だから、 使用価値はけっして資本家の直接的目的として取り扱われるべきものではない。個々の利得もまたそうで はなく、ただ利得することの無休の運動だけがそうなのである」 「資本の運動には限度がない」とはすさまじいことを言っている。資本というのはある一定程度まで儲け たら、それで終わるということは絶対にない。一生ぜいたくしても使い切れない量の価値だろうが、一切関 係ない。その富を新たな出発点としてどこまでも果てしなく価値増殖を求めていく運動である。それが資本 なのだ。 資本とは何か固定した姿をもったものではない。さまざまに形を変えながら、永久に繰り返される価値の 運動が資本なのである。 この運動そのものが大恐慌へと不可避に行き着くのだ。資本は今この瞬間も、毎分毎秒、無限の価値増殖 を求め、世界を破滅に叩き込んでいこうとしている。その一切の根本が、この貨幣に始まり、貨幣に終わる G―W―G’の運動にある。 ●剰余価値はどこで創造されるのか ※このように無限に繰り返していく価値増殖の運動が資本だとするならば、次に問題となるのが、資本の運 動の中で増殖された価値である「剰余価値」はいったいどこで創造されるのか?ということである。 「この流通形態を単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順 序が逆になっていることである。では、どうして、このように純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質 を手品のように早変わりさせるのだろうか?」 16 たいていの場合、剰余価値〔G’=G+ΔGのΔG〕は、資本家が彼らの商品をその本来の価値よりも高 く売ることによって発生するのだと考えられている。資本家の才覚や市場の動向を読み、他の資本家を出し 抜く力などが剰余価値の源泉であると説明し、ブルジョアジーは剰余価値の取得をさも当然であるかのよう に言う。しかし、こんなものはまったくお粗末なはったりでしかない。流通過程は、すでに得られた剰余価 値を資本家のあいだでぶんどりあうものであったとしても、剰余価値を生み出すものではまったくない。 結論は、剰余価値はむしろ流通領域の外部で創造されるのであり、流通領域では実現されるだけ、貨幣化 されるだけなのである。どれだけ繰り返して持ち手を変えようと、貨幣を増えていかないし、商品もひとり でに増加しはしない。だから、商品が買われたあとで、そしてそれが再び売られるまえに、それの価値を高 めるような何ごとかがこの商品に起こらなければならない。商品は、この合い間の段階で消費されなければ ならない。 「ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独 特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の 対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出 さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである―労 働能力または労働力に」 ・その消費が価値創造であるような特殊な商品=労働力 「われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在して いて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神 的諸能力の総体のことである」 ・二重の意味で自由な労働者 「労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなけ ればならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない。労働力の所持者と 貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、た だ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である」 「貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分 の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在す る自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである」 貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で二重の意味で自由な労働者に出会わなければな らない。すなわち、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労 働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から 解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。 この関係は、一方に生産手段を私的に所有する階級と、他方にいっさいの生産手段から切り離された無所 有の階級とが存在していなくてはならない。労働者階級は、自分の労働力以外に何一つ売るものをもってい ないため、労働力を資本家に売る以外には生きることができない。この関係は、自然史的な関係ではないし、 また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。それは、明らかに、それ自体が、先行の歴史 的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なの である。 17 ・労働力の価値規定 労働力の価値は、その所持者の維持のために必要な生活手段の価値に等しい。ここで維持というのは、も ちろん繁殖をも含む継続的な維持のことである。 ここまでの展開で、資本主義の「経済的細胞」である商品の分析から、貨幣、資本について一体的にとら えてきた。そして、貨幣の資本への転化の鍵を握っているのが、労働力の商品化であることをつかみとって きた。労働力という商品は資本家によって買われた後に資本家の所有物として生産現場で消費される。だか ら、われわれは商品流通を離れて、貨幣所持者と労働力所持者のあとを追って、生産の場所に向かって行か なければならない。そこでは資本がどのように生産するかということだけではなくて、資本がどのように生 産されるかということもまた明らかになるであろう。 18 第3篇絶対的剰余価値の生産 ●資本家はいかにして労働者を搾取するか ※『資本論』のタイトルのつけ方と、モスト本での表題のつけ方の違い。 『資本論』では第3篇の表題が「絶対的剰余価値の生産」となっており、その中に「第5章 労働過程と 価値増殖過程」「第6章 不変資本と可変資本」「第7章剰余価値率」「第8章労働日」という構成になっ ている。 モスト本では、このような構成をとっていない。「絶対的剰余価値の生産」という労働者の日常生活の中で 聞きなれない言葉は表題に使わず、「労働日」というすべての労働者が自分自身の問題であるととらえられる ものを表題に持ってきている。ここに貫かれているのは、あくまでも自分は労働者だという立場に立ちきっ て、労働者にとってどう『資本論』を武器にしていくかという読み方だ。われわれも、学者的な読み方では なく、労働者階級の立場から『資本論』のガイストをつかみとり、闘いの武器として駆使していこう。 第3篇で、マルクスが言わんとしていることを、次の4点にまとめてつかんでいく。 ・ひとつに、そもそも人間の労働とは何か。 ・ふたつに、資本による労働者の搾取とは何か―労働者を長い時間働かせることである。 ・みっつに、資本家の剰余労働への渇望、貪欲さ。 ・よっつに、資本家と労働者の間の力関係がことを決する。 ●労働とは何か ※「人間の労働とは何だ?」ということを、真正面から対象化している。まず、資本主義社会ということを 離れて、およそ人間が人間として生きていくために、どんな特定の社会形態であろうと共通に必要なものと して、人間の労働というものを本質的にとらえる。これは、『資本論』のものすごい特徴だ。 <自然と人間とのあいだの一過程> 「労働とは、まず第一に自然と人間とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質 代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである」「人間は、自然素材にたいして彼自 身一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得する ために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。人間は、この運動によって自分の外の自 然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然〔天性〕を変化させる。彼 は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる」 「労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時 に彼の目的を実現するのである。その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を 規制するものであって、彼は自分の意志でこれに従わせなければならないのである。そして、これに従わ せるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働する諸機関の緊張のほかに、注意力とし て現れる合目的的な意志が労働の継続時間全体にわたって必要である」 マルクスは、労働、すなわち生産を、人間の最も根源的行為として把握した。 人間はいかにして人間になったのか。労働をとおしてである。人間は、キリスト教が説明するように神や 絶対者がつくりだしたものではなく、自然の一構成員であり、自然に働きかけそれを自らの目的に応じて変 化させるという活動を繰り返すことによって、物質的生活を生産してきたのだ。そして、この物質的生活の 19 生産こそが人間を動物と区別する。 「人間は、自分たちの生活手段を生産しはじめるやいなや、自分で自分を動物から区別しはじめる」(『ド イツ・イデオロギー』) 労働とは何か。人間と自然との関係である。自然とのかかわりなしに、労働が単独で存在することはでき ない。 生産この物質的生活の生産=労働は、およそ人間であるかぎりどんな社会形態であるかにかかわりなくた えず行われなければならない。 人間は物質的生産のなかで、自分自身ひとつの自然力として自然に働きかけると同時に、自分自身を変革 する。自分自身の能力を獲得していく。 「労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的な ものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条 件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等 しく共通なものである」 人間の労働を、自然と人間との一過程としてとらえたことは決定的に重要である。これによって、私有財 産制とは何か、ということが明らかとなる。 「人間が、あらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉である自然にたいして、はじめから所有者とし てふるまい、この自然を自分に属するものとしてとりあつかう場合にのみ、人間の労働は使用価値の源泉 となり、したがって富の源泉ともなるのである。 …労働が自然によって制約されている結果として、自分 の労働力以外になんの財産も持たない人間は、どんな社会的・文化的状態においても、客体的労働条件の 所有者となった他の人間の奴隷となるしかない」「自分の労働力以外になんの財産も持たない人間は、客 体的労働条件の所有者となった他の人間が許可したときだけしか働くことができない。つまり、彼らがい いと認めたときだけしか生存することができないのである」(『ゴータ綱領批判』) <労働そのもの・労働対象・労働手段> 労働過程の単純な諸契機は、労働そのもの・労働対象・労働手段である。 労働によってただ大地との直接的な結びつきから引き離されるだけの物は労働対象である。たとえば人間 のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地、水、魚、木、鉱物など。労働対象がそれ自体す でにいわば過去の労働によって濾過されているならば、われわれはそれを原料と呼ぶ。労働手段は、労働者 によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役だつ物 またはいろいろな物の複合体である。労働手段と労働対象とは生産手段として現れ、労働そのものは生産的 労働として現れる。 労働過程の結果は生産物である。それらは消費に役だつだけのこともあるし、労働手段に役だつだけのこ ともあるし、引き続き加工を要する原料(半製品)として利用できるだけのこともある。生産物が他の生産 物の生産に用いられるとき、それは生産手段に転化する。 前述したとおり、労働は、人間のどんな歴史的な生活形態にもかかわらず、およそ人間社会である以上、 永久的に行われなければならない。 労働こそ人間を人間たらしめるものであり、生命の発露、生命の実証でもある。資本主義社会において、 この労働の担い手が、労働者階級なのである。しかし、生産=労働を担う労働者階級は、資本主義において は無一物とされ、資本家のために価値を増殖するかぎりでしか労働することを許されない。一方で生産手段 20 の資本家的私有、他方に労働力の商品化ということが資本主義の根本である。これによって、人間の最も根 源的な活動であり、人間を動物と決定的に区別する労働が、資本家によって買われた商品の消費過程として、 つまり物と物との過程として行われる。これが資本主義社会の根本的な転倒性である。一切の生産を担い、 社会のすべてを作っていながら、資本主義社会においては徹底的に物とされた労働者が、「俺たちは物ではな い!人間だ!」と叫びを上げ、物とされることを拒否して団結して立ち上がったときに、資本主義をその足 下から打ち倒すことができるのだ。これが共産主義運動だ。 ●資本による労働者の搾取はどのように行われるのか ―労働者を長い時間働かせることである。 「彼が資本家の作業場に入った瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本家の ものになったのである。資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、 やはり自分のものである死んでいる生産物形成要素に合体したのである。彼の立場からすれば、労働過程 は、ただ自分が買った労働力という商品の消費でしかないのであるが、しかし、彼はただそれに生産手段 をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのである。労働過程は、資本家が買った物 と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である」 <商品の生産過程―剰余価値の獲得こそ資本家の唯一の目的> 資本家は品物を、自家消費のためにではなく市場に向けて製造する。つまり彼は商品を製造する。しかし、 それだけでは彼にとってなんの意味もない。彼にとって大事なのは、商品を生産するのに必要な生産手段と 労働力との価値総額よりも高い価値をもつ商品を製造することである。要するに、彼は剰余価値を求めてい るのである。剰余価値の獲得こそまさに貨幣所持者を駆り立てて、自分の貨幣を資本に転化し生産しようと させる唯一の動因である。 資本家がいかに剰余価値を生産し、ふところに入れるのか。モスト本はこれをきわめてわかりやすく説明 している。ここを読めば、資本家がいかにして剰余価値を生産するのか、すなわち労働者を搾取しているか がつかめる。この部分を、理解するまで何度でも繰り返し読むことが重要だ。 1)ある商品を生産するために、 ☆原料に 3万円 ☆生産手段に 1万円 が投下されるとする。総計で 4万円である。この原料と生産手段のいずれも労働の産物であり、 4万円とい う価値は、その生産に支出された労働時間をあらわしている。 4万円は平均的な労働力の支出によっては一 日 12時間を一労働日とする労働時間の 2日分をあらわしているとする。(平均的な労働の価値は一日に 12 時間働いて 2万円ということ。)そのように仮定すると、原料と生産手段にはひとまず、2労働日が対象化 されていることになる。 しかし、生産手段、原料は既に完成した一つの商品であり、資本家が買えばひとりでに組み合わされて別 の商品になるのではない。労働という具体的行為に媒介されることによってのみ生産手段、原料はあらたな 商品となる。そこで資本家は生産手段と原料に加えて労働力を買い入れる。 労働力の価値とは労働力の生産ないし維持のために毎日消費される諸商品の価値によって規定されている。 21 つまり、労働者(とその家族)が、今日働き、明日もまた働く事によって賃金労働者として生きていくこと のできる最低限の生活手段を購入するのに足りる貨幣額が、その人の労賃の最低限をなす。ここでは、平均 的な労働者は日給 1万円で自分(と家族)の生産を維持できるとする。そして、労働者は自分が生きていけ るのに充分な生活物資を購入できるのにたりる価値量以上に働かないとする。すると、資本家は労働者に ☆賃金 1万円 6労働時間(半労働日)を表す。 を払うことになる。したがって、生産手段と原料と労働力の結合によって新たに生み出された完成生産物 には2日と半労働日の労働が対象化されており、価格で表せばそれは5万円である。 資本家はそのために5万円を、すなわち原料および生産手段に4万円、労働力に1万円を支払った。価値 は増えも減りもしていない。このような場合には、剰余価値はまったく出てきようがない。 .................. 2)しかし、それでは資本家にとっては具合が悪い。彼は剰余価値を手に入れたいのであり、 ............ そうでなければ意味がない。 原料と生産手段は冷厳であり、それを消費しても新たな価値を生産物に付け加えることはない。まだ残っ ているのは、買い取った労働力である。 ここで重要なことは、次のことである。 「労働力に含まれている過去の労働と、労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力 の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規 定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だと いうことは、けっして彼がまる一日労働するということを妨げはしない。だから、労働力の価値と、労働 過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。この価値差は、資本家が労働力を買ったとき にすでに彼の眼中にあったのである」 この商品(労働力)の独自な使用価値、すなわち価値の源泉であり、しかもそれ自身がもっているよりも 大きな価値の源泉だという独自な使用価値、これこそ資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。 労働力の使用価値、つまり労働そのものはその売り手のものではないということは、売られた油の使用価 値が油商人のものではないようなものである。貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だから、一日の労 働力の使用、一日中の労働は、彼のものである。労働力はまる一日活動し労働することができるにもかかわ らず、労働力の一日の維持には半労働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が一日につ くりだす価値が労働力自身の日価値の二倍だという事情は、労働力の買い手である資本家にとっては他人の 労働を搾り取ることを可能にする。しかも、それを等価交換の関係のなかで行うのである。(実際には資本家 は必ず労働力の価値以下に引き下げようとするのだが)。 資本家はいま、労働力にたいして1万円を超える追加の支出をしないまま、労働力を6時間ではなく12 時間にわたって活動させ、この12時間に、労働力に3万円の原料ではなく6万円の原料を、また1万円の 生産手段ではなく2万円の労働手段を消費させるのであって、このような仕方で資本家は5労働日が対象化 されており、こうして10万円の価値がある生産物を手に入れる。 だが、彼が支出したのは、原料6万円、生産手段2万円、労働力1万円の計9万円だけであった。だから、 完成生産物は、いまでは1万円の剰余価値を含んでいる。 これで、剰余価値が発生するのは、労働力がそれ自身の価値の補填に必要であるよりも高い度合いで〔長 ............. い時間〕働くことによってだけであることがわかる。もっとはっきり言えば、剰余価値は不払労働から生じ . るのだ。 資本家や彼らの御用学者が「節欲の報酬」だとか「危険の負担」だとかなどのくだらない話をしてなんと 22 か言い抜けようとしても、それは無駄というものである。労働材料と労働手段は、それ自身新たな価値を創 造することはない。剰余価値を生産することができるのは労働力であり、労働力だけなのである。 ●資本家と労働者の間の力関係だけがことを決する ※生産諸条件が同じであれば、必要労働時間、すなわち労働者が資本家から支払われた自分の労働力の価値 または価格を補填するために必要とする労働時間は、労働力の価値そのものによって限界づけられる大きさ である。たとえば、労働者の毎日の生活手段が平均して6労働時間を要するなら、必要労働時間は6時間で ある。この場合には、資本家に剰余価値を提供する剰余労働が4時間・6時間などであるのにしたがって、 労働日全体は10時間・12時間などになる。この事情のもとでは剰余労働が長ければ長いほどそれだけ労 働日は長い〔絶対的剰余価値の生産〕。 では、労働日の長さはいかにして決まるか。それは、資本家の良心や理性によって決まるのでは断じてな ............................... い。資本家階級と労働者階級のあいだの闘争、力関係によってのみ決まるのである。 「資本家としては彼はただ人格化された資本でしかない。彼の魂は資本の魂である。ところが、資本に はただ一つの生の衝動があるだけである。すなわち、自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変 〔資本〕部分つまり生産手段でできるだけ多くの剰余労働を吸収しようとする衝動である。資本はすでに 死んだ労働であって、この労働は吸血鬼のようにただ生きている労働の吸収によってのみ活気づき、そし てそれを吸収すればするほどますます活気づくのである」 資本主義社会は、生産手段の資本家的私有と労働力の商品化によって資本家が労働者を搾取する社会だ。 本来、労働者の生きた体から切り離すことのできない労働力が、商品として売買される。そして全ての商品 が使用価値と交換価値という二重の性格をもっている。売買に於いて売り手が交換価値を手にし、買い手は 使用価値を手にするこの関係が労働力という商品でも貫徹される。資本家にとっては買い入れた労働力はも はや人間ではなく、自分がお金を出して買った使用価値=人間の顔をしたモノでしかない。それをどのよう に使おうが所有者である資本家の勝手である。したがって、後で見るように、買い手である資本家の側には、 そもそも労働日や、労働条件などという概念は一切存在しない。資本家は、ただただ自分がお金を出して買 った商品である労働力商品の使用価値を、最大限に使いまくり、労働者をできるかぎり長い時間働かせて、 最大限の剰余価値を手に入れようとする。これが資本だ。資本家階級と労働者階級とは、市民社会の構成員 として身分的、政治的には自由・平等であったとしても、経済的・物質的基盤には厳然と相違があり、一方 の取得が他方の喪失になるという対立がある。それは、絶対に非和解の関係にあるのだ。 ブルジョア・イデオロギーは、ここを曖昧化し、労働者階級が階級的に団結して資本に立ち向かうことを 解体しようとするものだ。資本による労働者へのあくなき搾取と支配を隠蔽し、弁護・擁護するものでしか ない。資本と労働者は絶対に非和解だ、そして一切は労働者と資本家の力関係によって決する。これが労働 者階級の立場だ。そのことをさらに具体的にはっきりさせていく。 ●資本家の剰余労働への渇望、貪欲さ ※資本がいかに剰余価値の拡大を求めて労働者から無際限に搾り取るのか。その実態を暴いていく。 「資本は、剰余労働を求めるその無際限な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度 だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康 維持のための時間を横取りする。資本は、外気や日光を吸うために必要な時間を取り上げる」「資本が関 23 心をもつのは、ただただ一労働日に流動化されうる労働力の最大限だけである」 「本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労 働力の萎縮を生産し、そのために労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪わ れるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産す る」 「われ亡きあとに洪水はきたれ!これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。だ から、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないので ある。肉体的および精神的な萎縮や早死にや過度労働の責め苦についての苦情にたいしては、資本は次の ように答える。この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)をふやすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめ るというのか?と。しかし、一般的に言って、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。 自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用さ せるのである」 @労働時間の削り取り(工場監督官の報告書) 「詐欺的な工場主は朝の6時15分前に、ときにはもっと早く、ときにはもっとおそく、作業を始め、午後の6時 15分すぎに、ときにはもっと早く、ときにはもっとおそく、作業を終える。彼は名目上朝食のためにとってある半 時間の始めと終わりから5分ずつを取り上げ、また昼食のためにとってある1時間の始めと終わりから10分ずつを 削り取る」 「こんなに景気の悪い時期に過度労働というようなものが行われるというのは矛盾したことに思われるかもしれな いが、この不景気が無法な人々を違反に駆り立てるのである。」 「たいていの工場では、不景気のために半分の時間しか操業していないのに、相変わらず私は、法律で労働者に保 証された食事や休息の時間への食い込みによって毎日半時間か4分の3時間が労働者からもぎ取られるという苦情 を、以前と同じようにたくさん受け取った」 A無制限の長時間労働による労働者の肉体的破壊、安全の破壊 ・9歳、10歳の子供が朝の2時、3時、4時ごろから夜の10時、11時、12時まで、ただ露命をつな ぐだけのために労働を強制されている。 ・長時間労働によって、身長、体重は著しく減少し、健康や生命が破壊されている。 ・資本家のあくなき儲けのために、粉末にしたり塩をまぜたりした明礬などをパンに混ぜ込むという、「パン の不純製造」が行われている。それと同時に、労働日の無制限な延長や夜間労働が行われている。 ・長時間労働によって鉄道事故が引き起こされる。その責任は、徹底的に労働者に転化される。 「ある大きな鉄道事故が数百の乗客をあの世に輸送したのである」「彼らは陪審員の前で口をそろえて次のように言 っている。10年から12年前までは自分たちの労働は1日にたった8時間だった。それが最近の5、6年のあいだ に14時間、18時間、20時間とねじあげられ、 …休みなしに40―50時間続くことも多い。自分たちも普通の 人間であって巨人ではない。ある一定の点で自分たちの労働力はきかなくなる。自分たちは麻痺に襲われる。自分た ちの頭は考えることをやめ、目は見ることをやめる。あくまで『尊敬に値するイギリスの陪審員』は、彼らを『殺人』 のかどで陪審裁判に付するという評決を答申し、一つの穏やかな添付書のなかで次のようなつつましやかな願望を表 明する。鉄道関係の大資本家諸氏は、どうか将来は、必要数の「労働力」の買い入れではもっとぜいたくであり、代 価を支払った労働力の搾取では「もっと節制的」か「もっと禁欲的」か「もっと倹約的」であってもらいたい、と」 24 ●標準労働日をめぐる闘争 ここでは、資本家と労働者の関係は非和解であり、いっさいは両者の力関係に帰着するということを最も よく現わす具体的な事実として、標準労働日をめぐる資本家と労働者の力のせめぎあいを見ていく。 <労働日延長のための強制法> ※14世紀半ばから17世紀末までは、立法によってイギリスの労働者たちの労働日が延長された。 「資本主義的生産様式の発展の結果、「自由な」労働者が、彼の習慣的な生活手段の価格で、彼の能動 的な生活時間の全体を、じつに彼の労働能力そのものを売ることに、 …自由意志で同意するまでには、す なわち社会的にそれを強制されるまでには、数世紀の歳月が必要なのである」 「18世紀の大部分をつうじて、大工業の時代に至るまでは、まだイギリスの資本は労働力の週価値を 支払うことによって労働者のまる一週間をわがものにすることには成功していなかった」 <法律による労働日の制限―半世紀にわたる内乱の産物> 「1833年から1864年までのイギリスの工場立法の歴史以上によく資本の精神を特徴づけている ものはない!」 ・労働時間短縮のための闘争 1802年以来、イギリスの労働者たちによって労働時間短縮のための闘争はねばり強くおこなわれてき た。30年のあいだ、彼らの闘争は無駄骨に等しかった。やっと1833年から標準労働日が次第に広まり はじめた。 1833年の法律 18歳以下の少年の労働時間の制限 資本家たちはリレー制度で対抗(少年を交代で働かせる)。 「一工場日の15時間のあいだ資本家は労働者をときには30分、ときには1時間、引き寄せては突き放し、また あらためて工場に引き入れては工場から突き出し、そのさい、10時間の労働が完了するまではいつでも彼を見失う ことなく、時間をこまかくちぎって彼をあちこちに追い回すのだった」 労働者たちは10時間標準労働日の要求を開始。 1844年の追加工場法 婦人の労働時間の制限 資本家たちは、これと引き換えに、児童の最低年齢を9歳から8歳に引き下げ。さらなる児童搾取。 1847年の工場法 法律の発効を前に資本家の前哨戦が開始される。 恐慌に乗じて労働者の賃金引下げ。工場法を廃止するための扇動。 工場法に対して資本家の公然たる反逆が始まる。 あちこちで少年や婦人労働者を解雇、夜間労働を復活させる。公然と法律を破り、違法とされたリレー制 25 度を復活。内務大臣の指示によってリレー制度は元どおりに合法とされる。また、資本家自身が判事となっ た裁判で、次々と資本家に無罪を出していく。四つの最高裁判所の一つである財務裁判所によって、1844年の法律の無効が宣言される。 *裁判所の階級的本質! 「営業権」で憲法を停止する現在の裁判所はこれと何が違うのか! 労働者の側の堪忍袋の緒が切れた!反撃の開始。「10時間法と称するものは、ただのごまかしで、議会 の詐欺で、いまだかつて実際にはなかったのだ!」 1850年の新しい追加工場法で工場主と労働者のあいだの妥協が成立。これによってリレー制度は廃止。 児童労働については1844年の法律が引き続き有効とされた。ある部類の工場主は例外をもうけて児童労 働を温存させる。しかし、1850年の工場法はそれの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働 日を規制した。 ※今日のブルジョアジー、支配階級のやっていることは、これとまったく同じである。労働時間や労働者の 権利、労働条件は、法律や制度、裁判所に依拠して決まるものではなく、資本と労働の力関係、すなわち労 働者自らの闘いによってしか決まらないということだ。 ・日本経団連の2010年経労委報告。「定昇凍結・廃止」への踏み込み。戦後の労働者と資本家の力関係を 総体として転覆する大反動。 ・戦後労働運動の歴史は、資本家階級と労働者階級が激突してきた歴史である。その軸は国鉄である。 国鉄1047名闘争×外注化阻止の国鉄決戦が、資本家階級と労働者階級の力関係を決する大決戦に押し 上げられた! 26 第4篇相対的剰余価値の生産 ※第3篇では、労働者を長い時間働かせることに対する、資本家の吸血鬼のような渇望ということを見てき た。第4篇で明らかにされるのは、資本家の搾取はそれに止まらない、ということだ。とりわけ、機械と大 工業によってもたらされる資本の合理化攻撃とは何なのかという問題があますところなく展開されている。 そして、それに対して労働者が闘って団結を拡大していくことが、労働者の生死を決する問題である。第4 篇の全体を、資本の合理化攻撃とは何か、労働者階級はこれに対していかなる態度をとるべきかという観点 を貫いて読んでいく。 それはまた、ブルジョアジーや体制内指導部のイデオロギーを粉砕し尽くすということだ。「資本主義は いろいろ良くないところもあるが、資本主義の下でこれだけ生産力が発展した。社会全体は進歩し、それで 労働者の生活も以前より良くなったではないか」「生産性が発展すれば労働者にもおこぼれが多くなる」。こ れがブルジョアジーの振りまくイデオロギーである。しかし、まさにとんでもないデタラメである。資本主 義ほどの搾取を、労働者に強制した社会は、人類史上かつてない。資本主義とは「生産力が発展すればする ほど、ますます過酷になる一つの奴隷制度」なのだ。第4篇の展開をとおして、労働者を資本にどこまでも 縛りつけるブルジョアイデオロギーを、徹底的に爆砕していく。 <生産力の発展による剰余価値の生産(相対的剰余価値の生産)> 資本主義的生産のなかでの労働生産力の発展は、労働日のうち労働者が自分自身のために労働しなければ ならない部分を短縮し、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することができ る残りの部分を延長することを目的としている。これが、相対的剰余価値の生産である。 こうした結果を達成するためにおこなわれるいくつかの特殊な生産方法を考察する。 <協業―生産力の発展と資本家の専制的指揮> そのような生産方法は、まずは協業である。 「かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類 の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生 産の出発点をなしている」 「同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっし ょに協力して労働するという労働の形態を、協業という」 ・生産手段の一部分が共同で消費される。生産手段の節約。 ・それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造。 ・一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させる。 「この生産力は協業そのものから生ずる。他人との計画的な協働のなかでは、労働者は個体的な限界を脱 け出て彼の種族能力を発揮するのである」 ・協業の成立する物質的条件。資本の大きさ。一人一人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分し 27 うる程度。 ・協業は資本家に指揮の役割をゆだねるが、これが彼の手にゆだねられると、それは専制的な性格をもつよ うになる。この専制的な性格は、協業が大規模に用いられるようになればなるほどますますはっきりとあら われてくる。 ●分業とマニュファクチュア ・単純協業から作業場内の分業が発生する。これはマニュファクチュア(工場制手工業)を特徴づける。 ・マニュファクチュアの二重の起源。 一方では、一つの生産物をつくるためにさまざまな手工業者が一つの労働場所に結合される〔馬車〕。こ れらの自立した手工業のそれぞれの労働種類が、一つの部分労働に転化される。 他方では、同じ職業の多数の手工業者が、同じ場所で同時に労働させられる〔製針〕。まもなく、労働者 の個々の部分は、ある生産物の個々の部分を完成させるだけとなり、「協力しあって」労働が行われるように なる。 <マニュファクチュアの資本主義的性格> マニュファクチュア的分業が発展すればするほど、個々の労働者の労働力の育成はそれだけ一面的となら ざるをえない。 ・労働者の部分化―資本家の作業場の付属物に転落 「元来は、労働者が自分の労働力を資本に売るのは、商品を生産するための物質的手段が自分にはない からであるが、今では彼の個人的労働力そのものが、資本に売られなければ用をなさないのである。その 労働力は、それが売られた後にはじめて存在する関連のなかでしか、つまり資本家の作業場のなかでしか、 機能しないのである。マニュファクチュア労働者は、その自然的性質からも独立なものをつくることはで きなくなっているので、もはやただ資本家の作業場の付属物として生産的活動力を発揮するだけである」 「分業はマニュファクチュア労働者に、彼が資本家のものだということを表している焼き印を押すのであ る」 ・生産上の精神的な諸能力は他人の所有となる 「未開人があらゆる戦争技術を個人の知能として用いるように、独立の農民や手工業者が小規模ながら も発揮する知識や分別や意志は、今ではもはやただ作業場全体のために必要なだけである。生産上の精神 的な諸能力が一方の面ではその規模を拡大するが、それは、多くの面でそれらがなくなるからである。部 分労働者たちが失うものは、彼らに対立して資本のうちに集積される。部分労働者たちにたいして、物質 的生産過程の精神的な諸能力を、他人の所有として、また彼らを支配する権力として、対立させるという ことは、マニュファクチュア的分業の一産物である」 ・マニュファクチュアでは、全体労働者の、したがって、また資本の、社会的生産力が豊かになることは、 労働者の個人的生産力が貧しくなることを条件としている。 ・マニュファクチュア的分業は、ただ相対的剰余価値を生みだすための、または資本の自己増殖を労働者の 犠牲において高めるための、一つの特殊な方法でしかない。それは、労働の社会的生産力を、労働者のため 28 にではなく資本家のために発展させる。さらにまた労働者に肉体的精神的障害をもたらす。 ・マニュファクチュア時代においては、不熟練労働者の数は、熟練労働者の優勢によって、まだ非常に制限 されている。資本はたえず労働者の不従順と戦っている。 同時に、マニュファクチュアは、社会的生産をその全範囲にわたってとらえることも、その根底から変革 することもできなかった。 しかしマニュファクチュアはそれ自身、機械を生みだす。マニュファクチュアによって実現した一面的な 作業に特化した部分的労働は、その作業を労働者の手から機械の手に置き換えることを可能にし、また機械 の導入によってその作業の規模を圧倒的に拡大して膨大な特別剰余価値を取得することが可能となる。そし て、資本家間の競争は全ての資本家に機械の導入を強制する。こうしてマニュファクチュアによる分業の発 展は必然的に機械制大工業の扉を開く。 「機械は、社会的生産の規制原理としての手工業的活動を廃棄する。こうして一方では、労働者を一つ の部分機能に一生縛りつけておく技術上の根拠は除かれてしまう。他方では、同じ原理がそれまではまだ 資本の支配に加えていた制限もなくなる」 ●機械と大工業 まず、機械とは何か、機械はどのように発達していくか、機械から生産物への価値移転がどのように行わ れるかといったことが説明されている。 「機械は、商品を安くするべきもの、労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮し て、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきものなのである。それは、剰余価値を生産するた めの手段なのである」 「機械の生産性は、その機械が人間の労働力にとって代わる程度によって計られる」 <機械経営が労働者に及ぼす直接的影響> ※機械経営による合理化とは何か。ここに剰余価値を無制限に渇望する資本の本質が現れる。資本にとって の最大の関心事は、いかに労働者の抵抗を打ち砕き、労働者を資本の意のままにしていくかということにあ る。とりわけ、『資本論』の当時においては、熟練を無意味化し、成年男子労働者の抵抗を打ち砕くことが至 上命題であった。 大工業と機械は、資本に無抵抗な児童労働と女性労働を大量に生産過程に吸いこみ、男子成年労働者を工 場から文字どおり放りだし、労働者の抵抗を力ずくで粉砕していく攻撃であった。今日の非正規労働も同じ ではないか。 この機械と大工業によってもたらされる労働者への殺人的攻撃に対して、まず機械にたいする直接的な反 逆として、労働者の闘いが始まっていく。それは、今日へと連綿とつらなる反合理化闘争の歴史的出発点を 形成しているのだ。 @資本による補助労働力の取得女性労働と児童労働 機械が労働者にどんな影響を及ぼすのかということを明らかにしていく。 第一に、機械は、筋力のない労働者、または身体の発達は未熟だが手足の柔軟性がある労働者を使用する 29 ための手段になる。だからこそ、女性労働と児童労働が機械の資本主義的使用の最初の言葉だったのだ! 機械は、性の区別も年齢の区別もなしに労働者家族の全員を資本の直接的支配のもとに組み込み、賃金労 働者の数を増やす手段となる。また、成年男子の労働力の価値を彼の全家族のあいだに配分することによっ て、労働力を減価させる。 結合された労働人員に圧倒的な数の子どもや女性を加えることによって、男子労働者がマニュファクチュ ア時代には資本の専制にたいしてなおおこなっていた反抗をついにうちひしぐ。まさに資本による労働者へ の征服過程である。労働者はますます奴隷化される! A労働日の延長 第二に、機械は労働日を無制限に延長する。 機械は、使用によって損耗するだけではない。それが使用されていないときには、自然力の作用がそれを 腐朽させる。改良されたどんな機械も、改良の規模と作用とに応じて、それより劣る機械を減価させる。だ から資本家は競争戦に勝ち抜くために、自分の機械をできるだけ短期間に使い尽くそう、与えられているあ らゆる時間からできるだけ多くの労働時間を切り取ろうと努める。彼はそれによって、不利益から身を守る だけではなくて、著しい利益を獲得することになる。 「機械は、資本の担い手としては、最初はまず機械が直接にとらえた産業で労働日をどんな自然的限界 をも越えて延長するための最も強力な手段になる」 「機械では、労働手段の運動と働きが労働者にたいして独立化されている。労働手段は、それ自体とし て、一つの産業的な恒久運動機構となり、この機構は、もしもそれが自分の人間的補助者の自然的制限す なわち彼らの肉体的弱点や彼らのわがままに衝突しないならば、不断に生産を続けるはずのものである。 だから、それは、資本としては …反抗的ではあるが弾力的な人間的自然的制限を最小の抵抗に抑えつけよ うとする衝動によって活気づけられているのである。そうでなくても、この抵抗は、機械による労働の外 観上の容易さと、より従順な婦人・児童要素とによって、減らされているのである」 「労働時間を短縮するための最も強力な手段が、労働者とその家族との全生活時間を資本の価値増殖に 利用できる労働時間に変えてしまうための最も確実な手段に一変する」 B労働の強化 第三に、機械は、同じ時間により多くの労働をしぼり取るための手段になる。すなわち、労働の強化であ る。それは、二通りの仕方がある。すなわち、機械の速度を高くすることと、同じ労働者の見張る機械の範 囲、すなわち彼の作業部面の範囲を広げることである。 「人力で動かされる手工業的な機械が、発達した、したがって機械的動力を前提する機械と直接または 間接に競争する場合には、機械を動かす労働者に関して大きな変化が生ずる。最初は蒸気機関がこの労働 者に代わったのであるが、今度は彼が蒸気機関の代わりをしなければならない。それゆえ、彼の労働力の 緊張と支出とは恐ろしいものになる。まして、この責め苦を宣告された未成年者にとってはいっそうひど い!」 <工場> ・今度は、工場全体に目を向ける。労働者は機械の付属物となり、労働の専門性はなくなる。専門化された 30 労働者の等級制にかわって、労働の均等化、水平化の傾向が現れる。 ・マニュファクチュア時代の古い分業体制は技術的に覆されるが、資本による労働者の搾取のために分業は 「もっといやな形で」再生産され固定される。 「前には一つの部分道具を扱うことが終生の専門だったが、今度は一つの部分機械に仕えることが終生 の専門になる。機械は、労働者自身を幼少時から一つの部分機械の部分にしてしまうために、乱用される。 こうして労働者自身の再生産に必要な費用が著しく減らされるだけではなく、同時にまた、工場全体への、 したがって資本家への、労働者の絶望的な従属が完成される」 「工場では一つの死んでいる機構が労働者たちから独立して存在していて、彼らはこの機構に生きてい る付属物として合体されるのである」 ・工場での兵営的な規律、労働者にたいする資本の専制的な支配が完成される。 *監獄職場、監獄大学の現実! ・さらには、労働者は、まったく多様な仕方で痛めつけられる。 「四季の移り変わりにも似た規則的正しさでその産業死傷報告を生みだしている密集した機械設備のな かでの生命の危険は別としても、人工的に高められた温度や、原料のくずでいっぱいになった空気や、耳 をろうするばかりの騒音などによって、すべての感覚器官は一様に傷つけられる。工場制度のもとではじ めて温室的に成熟した社会的生産手段の節約は、資本の手のなかで、同時に、作業時における労働者の生 活条件、すなわち空間や空気や光線の組織的な強奪となり、また、労働者の慰安設備などはまったく論外 としても、生命に危険な、また健康に有害な生産過程の諸事情にたいする人体保護手段の強奪となる」 <労働者と機械の闘争> 「およそ資本主義的生産様式は労働条件にも労働生産物にも労働者にたいして独立化され疎外された姿 を与えるのであるが、この姿はこうして機械によって完全な対立に発展するのである」 資本と労働者の非和解関係は、機械の出現によってそのむきだしの姿をあらわす。資本と労働者は、まさ に殺すか殺されるかの関係にある。 それゆえ、機械とともにはじめて労働手段にたいする労働者の狂暴な反逆が始まるのである。資本に対す る労働者の反逆は、機械への打ちこわし運動として始まっていく。これが今日にいたる労働運動の歴史的出 発点をなしている。 ・機械に対する労働者の闘争 17世紀から機械に対する労働者の反逆が始まり、全ヨーロッパを震撼させる。 19世紀の最初の15年間にイギリスの工業地区で行われた機械の大量破壊。蒸気織機に対する怒りの爆 発。ラダイト運動。 ・機械は労働者を打ち殺す 「機械としては労働手段はすぐに労働者自身の競争相手になる。機械による資本の自己増殖は、機械に よって生存条件をなくされてしまう労働者の数に正比例する」 31 「労働者階級のうちで、こうして機械のために余分な人口にされた部分、すなわちもはや資本の自己増 殖に直接には必要でない人口にされた部分は、一方では機械経営にたいする古い手工業的経営やマニュフ ァクチュア的経営の対等でない闘争のなかで破滅し、他方ではすべてのもっと侵入しやすい産業部面にあ ふれるほど押し寄せ、労働市場に満ちあふれ、したがって労働力の価格をその価値よりも低くする」 「機械が一つの生産分野をだんだんととらえてゆく場合には、機械はそれと競争する労働者層のうちに 慢性的な貧困を生み出す。この推移が急速な場合には、機械は大じかけに急性的に作用する。イギリスの 綿布手織工の没落は徐々に進行して数十年にわたって長びき1835年にやっと終止符がうたれたが、世 界史上にこれ以上に恐ろしい光景はない。彼らのうちの多くのものが飢え死にし、多くのものが家族も含 めて1日に2ペンス半で暮らした。これとは反対に、イギリスの綿業機械は東インドには急激に作用し、 東インド総督は1834―1835年には次のことを確認した。「困窮は商業史上にほとんど比類のない ものである。綿織物工の骨はインドの野をまっ白にしている」。 「労働手段が労働者を打ち殺すのである。この直接的な対立は、たしかに、新しく採用された機械が伝 来の手工業経営やマニュファクチュア経営と競争するたびに最も明瞭に現れる。しかし、大工業そのもの のなかでも、絶えず行われる機械の改良や自動的体系の発達は同じような作用をするのである」 ・機械は労働者に敵対する力として導入される 資本家は、単に労働者の数を減らして利潤を得るという経済的要因から機械を導入するのではない。機械 は、労働者に敵対する力として、資本によって声高く、底意をもって、宣言され操作される。資本の専制に 反抗する労働者の反逆、ストライキなどを打ち倒すために、新たな機械が導入される。 「ただ労働者暴動に対抗する資本の武器として生まれただけの1830年以来の発明を集めてみても、 完全に一つの歴史が書けるであろう」 これこそは、まさに資本の合理化攻撃の本質をなしている。現在、JRで行われている全面外注化攻撃を 見よ。合理化攻撃は、資本が資本である限り不可避とするものであり、労働者とは相容れない。その本質は 労働組合への破壊攻撃であり、階級的団結にたいする破壊攻撃以外のなにものでもない。 以下は、いずれも労働者のストライキをつぶすために新しい機械を導入した資本家やそれを代弁するブル ジョア経済学者の語っていることである。 「われわれの現代の機械改良の著しい特徴は、自動的な道具機の採用である。今日、機械を使用する労働者がし なければならないこと、そしてどんな少年にでもできることは、自分で労働することではなくて、機械のみごとな 作業を見張っていることである。ただ自分の技能だけに頼っている部類の労働者は今ではすべて排除されている。 以前は、私は機械工1人について少年4人を使っていた。この新しい機械的結合のおかげで、私は成年男工の数を 1500から750に減らした。その結果は、私の利潤のかなりの増加だった」 「古い分業戦線のうしろで不落のとりでに守られていると妄信していた不満家たちの群は、こうして現代の機械 戦術によって自分たちの側面が襲われ、自分たちの防御手段が無力にされたのを知った。彼らは無条件で降伏する よりほかはなかった」 「それ(機械の導入)は、勤労階級のあいだに秩序を回復するという使命を帯びていた。 …資本は、科学を自分 に奉仕させることによって、つねに労働の反逆的な手に服従を強要する、というわれわれがすでに展開した説を、 この発明は確証している」 32 *************************************** コラム反合理化・運転保安闘争路線 1)資本主義とはたえざる合理化、効率化をとおして利潤拡大を無限に求める運動だ。それは、労働者の安 全、健康、生命をとことん犠牲にする。 安全や保安設備は資本にとって利潤を直接生まない。資本はこの部分をかぎりなくゼロ化する。これが資 本の本質なのだ。日本の場合、トヨタの合理化が典型だ。限りなくラインのスピードを上げ、安全を削って 効率化を上げる。事故が起きる寸前のスピード、安全投資の削減が資本にとっての最適なのだとあからさま に言う。そうしなければ国際競争に勝てないというのだ。その結果が、車の安全の崩壊だ。鉄道も同じだ。 JR尼崎事故を見よ。まさに闘わなければ労働者は殺されるのだ。安全は労働者が闘って資本に強制するも のでしかない。 2)合理化は資本主義の本質的な攻撃である以上、体制内派は合理化に屈服する。まさに労働組合がどう闘 うかが問題だ。 連合は、労働組合自身が資本と一体となって合理化を推進している。「生産性の向上で雇用を守る」「合理 化を積極的に推進して企業を守る」というイデオロギーで階級性を解体する攻撃でもある。 郵政民営化に全面協力してできたJP労組は組合綱領で「民営郵政の成長発展」のために「生産性運動を 推進する」と掲げている。その結果、何が起きているか。労災・交通事故、過労死、心身の病気、退職に追 いやられる労働者が続出。50代の労働者に10時間の深夜勤が3日ないし2日連続(3週間で8日の深夜 労働)が強制される。6割が非正規職につき落とされ、賃金は正規職の3分の1。 日本共産党のように、資本に対する現場の闘いをとことん否定し、「ルールある経済社会」を資本家と労 働者が一緒になってつくりましょう、などというものは、労働者の安全、生命、健康を奪う資本の攻撃に掉 さすものだ。こんなものを許したら、労働者の団結は破壊され、命まで奪われる。 資本の剰余価値を渇望する無際限の運動が合理化を不可避とする。合理化は階級的団結への破壊攻撃であ り、安全・生命を奪う攻撃だ。反合・運転保安闘争路線で闘うことが勝利の道だ。それは、現場で起きる事 故の責任の一切は資本・当局にあるという階級的立場をはっきりさせ、事故の責任を労働者に転嫁する攻撃 を絶対に許さない闘いだ。 ・ベルギーでは列車衝突事故の責任を運転士に転嫁しようとする当局への怒りが爆発。鉄道労働者の自発的 なストライキ。国鉄を3つに分割・民営化した結果、安全が崩壊。 ・イギリスでは車掌を乗務させず運転士と検察係のみで運行させるという合理化攻撃に対してRMT(鉄道・ 海運・運輸労組)が24時間ストに決起。 3)戦後労働運動における合理化攻撃との闘い 反合・運転保安闘争路線の意義 ・三池闘争とその敗北 当時、総評最強の労働組合。「安全は闘いとるべきもの」「安全が確保されなければ就労しない」 この三池労組に対して、1492名の指名解雇。職場活動家を一掃するすさまじい労組破壊攻撃。資本の 側の全山ロックアウトに対して、無期限ストで闘う。資本の第二組合を組織して生産を再開しようとする攻 撃。それを阻止するピケット防衛隊。ホッパー(貯炭槽)を占拠し、生産阻止を続ける。地裁が立入り阻止 の仮処分を出し、機動隊1万人を出動する。三池労組側は全国から10万人の労働者が結集。しかし、炭労・ 総評は国家権力との激突を前に震え上がり三池労組を無視して闘争を幕引き、ストライキは中止される。現 場における職場闘争は解体され、国会における政策転換闘争に方針変更を強制される。 闘争終結後の大合理化攻撃。1人当たりの出炭は56トン(59年14トン)と激増。これに立ち向かえ 33 ず、63年に炭塵大爆発事故が発生。458名もの炭鉱労働者が生命を奪われる。 現場における闘争を解体され、合理化に屈服したときに労働者は命すら奪われるということだ。安全は闘 って資本に強制する以外にない。 ・国鉄における合理化との闘い 国鉄の本格的な合理化攻撃の開始。57年第1次長期計画。(49年10万人首切り以降、国鉄は新採をと らなかった。57年から採用を再開。)60年代に入って毎年1万5千人の要員削減。 62年の三河島事故(死者160人)、63年の鶴見事故(死者161人)が起きる。 62年動労青森大会で、労使一体の事故防止委員会に参加するという従来の執行部の方針案が事故防止委 員会を廃止するに修正され、執行部が辞任に追い込まれる。実力で運転保安を闘い取る方針へと転換。 革マル松崎「事故問題は労働運動の課題とならない」。これに対して千葉地本青年部が事故闘争を運転保安 闘争として闘い、対決していく。 65年からの第3次長期経営計画。旅客輸送40%増、貨物30%増、5万人要員削減という大攻撃。最 大の焦点は機関助士廃止、2人乗務廃止。67年には動労・国労が9波のストを構える大闘争に。しかし、 当局、組合、学識経験者が入って安全性について検証するという委員会の設置で終わる。体制内的な反合闘 争が限界に突き当たる。 ・船橋事故闘争と動労千葉の反合・運転保安闘争路線 「事故責任を労働者に転嫁することを絶対に許さない」を一番の眼目にして闘われた。事故責任は労働者 のミスだ、弛みだとして労働者を締めつけ、安全無視の合理化こそ真の原因であることを隠蔽し、さらなる 合理化を強行するという流れを断ち切る闘い。事故を起こした労働者への責任転嫁を許さず、労働組合の団 結で絶対に守りきる。全員で闘ってはね返す。この闘いが現場労働者の力をぐいぐいと引き出し、5年の闘 いを貫いて解雇攻撃を粉砕し、復職をかちとる。 船橋事故に対する闘いの中から反合・運転保安闘争路線が確立。この闘いによって動労千葉の強い団結が 生まれる。73年に新しい階級的で戦闘的な地本執行部が確立。 反合・運転保安闘争は、田中委員長の言うように、「それまでの反合理化闘争の限界を突破した闘い」だっ た。 反合理化闘争は、資本の本質との衝突になる。資本の本質は不断の合理化運動である。それまでの労働運 動はすべて、口先では「合理化反対」と言いながらも、現実の合理化に対して、労働組合の団結を守って非 和解的、永続的に闘い続けることは不可能だという敗北主義におおわれ、現実の合理化攻撃の前に屈服を重 ねてきた。合理化という敵の団結破壊の攻撃に対して、組合幹部が「仕方がない現実だ」と言い訳を繰り返 して、労働者や労働組合を低めつづけてきたのが民同や日共の労働運動だった。 こうした現実にたいして、合理化攻撃と持続的に真正面から対決して闘い、団結を強化・拡大していくこ とができるということを示したのが、動労千葉の反合・運転保安闘争路線だ。合理化によって不可避となる 安全・事故問題を労働組合の闘いとしてはじめて真正面から位置づけた。とくに一般的な安全ではなく、事 故に対する態度こそ資本と労働者の非和解性をもっとも鮮明に示す。当局の合理化攻撃は、直接利潤を生ま ないばかりか多くの投資や人員を必要とする安全をつねに切り捨てる。それでいていったん事故を起こせば、 その責任はすべて当該の労働者に転嫁される。事故を起こした労働者は逮捕され、裁判にかけられ、新聞や テレビで袋だたきにあう。そして合理化はますます強行される。現場労働者は毎日こういう現実のなかで生 活している。これほど切実な問題はない。「労働者への事故責任転化を許すな、裁かれるべきは国鉄当局だ」 という訴えは、全組合員の怒りを結集するスローガンになっていった。 目の前で事故を起こし、すべての責任を転嫁されようとしている労働者を労働組合が守りきる闘いだ。そ れは資本と非和解的に闘う以外にできない。動労千葉は、この闘いによって体制内的な合理化反対闘争の限 界を実践的に突き破った。この反合・運転保安闘争路線が、労働者の怒りを結集して、闘う労働組合への変 34 革をかちとっていった。 ・国鉄分割・民営化攻撃との闘い ・第2の分割・民営化―検修部門全面外注化阻止決戦へ 日本労働者階級の闘いは、国鉄労働者を先頭とする第2の分割・民営化―検修部門の全面外注化阻止の力 勝負の決戦に突入している。 その勝利を切り開く路線が、反合・運転保安闘争路線だ。外注化は民営化・私有化であり、組合破壊だ。 JR東日本の動労千葉・幕張支部への組織破壊攻撃を見よ。ストに対する戒厳体制。外注化によって、雇用 も賃金も破壊し、労働者の誇りもすべて足蹴にし、数百の資本に分割していこうとしている。それぞれの資 本が好き勝手に効率化・合理化を推し進め、安全をとことん切り捨てる攻撃であり、大事故へとつながる。 反合・運転保安闘争路線こそあらゆる労働者の怒りとエネルギーを結集して立ち向かうことができる。 また、資本はつねに青年労働者をターゲットとして合理化を強行する。これは資本というものの本質上そ うなのだ。したがって青年労働者にいっさいの矛盾が集中する。つねに青年労働者は新しい機械、新しいシ ステム、新しい分割に叩きこまれる。つまり、青年労働者が合理化を粉砕するか否かを握っているのだ。組 織拡大の一大決戦で決着をつける。JR外注化阻止決戦で、全労働者の未来を切り開こう。 コラム終わり *************************************** <工場法> ※資本主義とは人間材料の犠牲において資本の自己増殖をはかる運動だ。そこには労働者の健康、生命、生 活などという概念はそもそもない。 資本の吸血鬼のような搾取、労働者を文字どおり打ち殺していった大工業と機械に対して、労働者階級が 闘って闘いぬいて、血みどろの内乱をとおして工場法を国家に強制していく。 @保険条項 工場法の保健条項について、『資本論』では次のように言っている。 「その用語法が資本家のためにその回避を容易にしていることは別としても、まったく貧弱なもので、 実際には、壁を白くすることやその他のいくつかの清潔維持法や換気や危険な機械にたいする保護などに 関する規定に限られている」 資本家は、彼らの労働者の手足を保護するためのわずかな支出を彼らに課する条項にたいして、熱狂的に 反抗した。 「資本主義的生産様式にたいしては最も簡単な清潔保健設備でさえも国家の側から強制法によって押し つけられなければならないということ、これほどよくこの生産様式を特徴づけうるものがあろうか?」 「それと同時に、工場法のこの部分は、資本主義的生産様式はその本質上ある一定の点を越えてはどん な合理的改良をも許さないものだということを、的確に示している」 『資本論』の現実は、新自由主義攻撃のもとで世界中の労働者が置かれている現実そのものだ。 一例をあげればアメリカでは90年代以来の「外注革命」によって刑務所まで民営化された。月給360 35 0円の超低賃金、社会保険も福利厚生費も一切不要、労働組合もなくストライキもやらない労働力を目当て に膨大なアウトソーシング(外注化)が行われている。鉛などの有害物質を含むパソコンの解体作業に、何 の防護服も保護メガネもつけずに従事させられていたことが、受刑者の内部告発によって明るみに出た。ま さにこれが資本のむき出しの姿だ。 A教育条項 教育という問題をとらえる上で非常に重要だ。 大工業ともに公教育が始まる。労働の強制条件として教育が宣言された。 それは、まず何よりも資本による破廉恥で無制限な児童の搾取に対する制限として、労働者が血を流して 闘いとった。その画期的な意義は、筋肉労働と教育とを結びつけることで、固定した分業によってつくり出 される人間の部分性、一面性から人間を解き放ち、社会的生産の主体であり未来社会を作っていく主人公を 形成するものとして、教育を労働者階級が奪還していく萌芽が出てきたということにある。 教育とは、本来、一面的な資本主義的分業のための、部分化された労働力、すなわち資本家にとっての搾 取材料ではなく、社会的生産の主体としての人間の全面的な発達を生みだしていくものでなければならない。 資本主義においては、資本の要請に応じた、搾取材料を作ることが教育とされている。 *首都大学の学長発言! 「工場制度からは、われわれがロバート・オーエンにおいて詳細にその跡を追うことができるように、 未来の教育の萌芽が出てきたのである。この教育は、一定の年齢から上のすべての子供のために生産的労 働を学業および体育と結びつけようとするもので、それは単に社会的生産を増大するための一方法である .......... だけではなく、全面的に発達した人間を生みだすための唯一の方法でもあるのである」 今日、教育の民営化が公教育を徹底的に破壊している。教育は学生を食い物にする道具となっている。学 費高騰、奨学金という名の教育ローン。大恐慌すら利用して学生の不安を煽り、金儲けのネタにする貧困ビ ジネス。未来をつくるべき教育が若者の未来を奪い、可能性を奪い、現実の生きた人間を食い尽くしている。 何という転倒!資本主義は自らを成り立たせてきた根幹すら破壊するに至ったのだ。教育・大学は資本に よる金儲け、競争の場から、社会を根本的に変革する拠点へと作り変えられなければならない。その条件は 日々生み出されている。「教育の民営化」を粉砕し、公教育を守りぬこう。教育を学生・労働者の手に奪還し よう。 <資本主義的分業の止揚> 「大工業は、一人の人間の全身を一生涯一つの細部作業に縛りつけるマニュファクチュア的分業を技術 的に廃棄するのであるが、それと同時に、大工業の資本主義的形態はそのような分業をさらにいっそう奇 怪なかたちで再生産するのであって、この再生産は、本来の工場では労働者を一つの部分機械の自己意識 ある付属物にしてしまうことによって行われ、そのほかではどこでも、一部は機械や機械労働のまばらな 使用によって、また一部は婦人労働や児童労働や不熟練労働を分業の新しい基礎として取り入れることに よって、行われるのである」 「マニュファクチュア的分業と大工業の本質との矛盾は、暴力的にその力を現わす。この矛盾は、なか んずく、現代の工場やマニュファクチュアで働かされる子供たちの一大部分が、非常に幼少の時から最も 簡単な作業に固く縛りつけられ、何年も搾取されていながら、後年彼らを同じマニュファクチュアや工場 で役にたつものにするだけの作業さえも習得できない、という恐ろしい事実に現れる」 36 社会のなかでの分業についても同じことが言える。手工業を基礎とする社会的生産のもとでは、完成され た特殊な技能が骨化した労働用具とともに、世代から世代へ伝えられる。 「この点で特徴的なのは、18世紀になってもいろいろな特殊な職業が mysteries(秘技)と呼ばれて、 その秘密の世界には、経験的職業的に精通したものでなければはいれなかったということである」 しかし、大工業のもとではそうではない。 「人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門 を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしていたヴェールは、 大工業によって引き裂かれた」 大工業の原理は、「それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しな いで、その構成要素に分解する」という点にあり、それは技術学というまったく近代的な科学をつくりだし た。 「社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関連な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それ ぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された」 「近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなもの としては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生 ... 産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。機械や化学的工程やその他の方法によって、近代工 ......................................... 業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってま ........................................... た、それは社会のなかでの分業をも絶えず変革し、大量の資本と労働者の大群とを一つの生産部門から他の ......................................... 生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働の転換、機能の流動、労 ................ 働者の全面的可動性を必然的にする。他面では、大工業は、その資本主義的形態において、古い分業をその 骨化した分枝をつけたままで再生産する。われわれはすでに、どのようにこの絶対的矛盾が労働者の生活状 態のいっさいの静穏と固定性と確実性をなくしてしまうか、そして彼の手から労働手段とともに絶えず生活 手段をもたたき落とそうとし、彼の部分機能とともに彼自身をよけいなものにしようとするか、を見た。ま た、どのようにこの矛盾が労働者階級の不断の犠牲と労働力の無際限な乱費と社会的無政府の荒廃とのなか であばれ回るか、を見た」 資本主義的分業は、労働者が機械の付属物として単なる労働力とされるということだけでなく、また工場 のなかでその手伝い、あるいは本来の工場労働者と「高級な部類の労働者」というかたちで「古い分業」を いやらしく再生産するというだけでなく、この「ただの労働力」が変転する資本の要求のためにいつでも自 由に利用されうる「みじめな(過剰な)労働者人口」とされ、絶えまなく「投げ出し投げ入れられる存在」 となっていくというかたちをとるのである。これが労働力の商品化の具体的な内容である。 「しかし、いまや労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至るところで障害にぶつかる 自然法則の自己運動的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、 したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実 現に諸関係を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。大工業は、変転す る資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用されるみじめな労働者人口という奇怪事の代わり に、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、一つの社会的細 部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式として かわるがわる行うような全体的に発達した個人をもってくることを、一つの生死の問題にする」 37 「疑う余地のないことは、資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係はこのような変革の 酵素と古い分業の廃棄というその目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的 な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である」 大工業の本性と資本主義的分業との矛盾と対立が、深刻な社会的敵対と破壊作用を伴って、そのなかで止 揚を求める。大工業の原理から必然的となる労働の技術的基礎と社会的結合の変革を実現する、資本主義的 分業のもとで労働者の部分化・一面化されたあり方から全面的に発達した個人としての労働者をもってくる ことを生死の問題にする。つまり、階級的敵対関係の極限的激化のなかに、最も奇怪な資本主義的分業の止 揚の道が開かれていくのである。 <家族と両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎> 「大工業は古い家族制度とそれに対応する家族労働との経済的基礎とともに古い家族関係そのものをも 崩壊させる」 「資本主義体制のなかでの古い家族制度の崩壊がどんなに恐ろしくいとわしく見えようとも、大工業は、 家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程で婦人や男女の少年や子供に決定的な役割を割 り当てることによって、家族や両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎をつくりだすのであ る」 <工場法の一般化> 「工場立法の一般化は、資本の支配をなお部分的におおい隠している古風な形態や過渡形態をことごと く破壊して、その代わりに資本の直接のむき出しの支配をもってくる。したがってまた、それはこの支配 にたいする直接の闘争をも一般化する」 「それは、小経営や家内労働の諸部面を破壊するとともに、「過剰人口」の最後の逃げ場を、したがっ てまた社会機構全体の従来の安全弁をも破壊する。それは、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を 成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、したがってまた同時に新たな社 会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」 <大工業と農業> 「資本主義的生産は、それによって大中心地に集積される都市人口がますます優勢になるにつれて、一 方では社会の歴史的動力を集積するが、他方では人間と土地とのあいだの物質代謝を撹乱する。すなわち、 人間が食料や衣服の形で消費する土壌成分が土地に帰ることを、つまり土地の豊饒性の持続の永久的自然 条件を、撹乱する。したがってまた同時に、それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活を も破壊する。しかし、同時にそれは、かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによっ て、再びそれを、社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確 立することを強制する」 「都市工業の場合と同様に、現代の農業では労働の生産力の上昇と流動化の増進とは、労働力そのもの の荒廃と病弱化とによってあがなわれる。そして、資本主義的農業のどんな進歩も、ただ労働者から略奪 38 するための技術の進歩であるだけではなく、同時に土地から略奪するための技術の進歩でもあり、一定期 間の土地の豊度を高めるためのどんな進歩も、同時にこの豊度の不断の源泉を破壊することの進歩であ る」 「資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによって のみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである」 39 第6篇労賃 ※第6篇は、モスト本の「8労働賃金」で要約されている。モスト本の「8労働賃金」のほとんどはマ ルクスが書いたものである。 資本主義の労働者への最大の攻撃とは、個々の資本のいろいろな攻撃にあるのではなく、労働者を商品と することそのものにある。労働賃金はその本質を完全におおい隠す形態だ。そして、労働市場を媒介として、 階級的に支配しているのだ。 「この「社会」の検事・政治家・兵士たちの全部を合わせても、この形態すなわち労働賃金が果たして いるほど大きな役割を果たしていない」(『資本と労働』) ブルジョアジーの労働者に対する支配はどういうふうに成り立ってるのか。その根本にあるのが賃金とい う形態である。資本家は、労働者を奴隷社会の奴隷のように鎖でつないでムチ打って働かせているわけでは ない。封建社会のように、身分的従属関係に縛りつけ、武装した領主が生産物を年貢として取り立てるわけ でもない。資本家が労働者を搾取できます、という法律があるわけでもない。資本家は、「私は何も強制して いません。労働者のみなさんが働きたいと言うから働いていただいているだけです」と言う。社会の表面に おいては、労働者は、資本家に強制されてではなく自ら望んで働き、その分け前として賃金を支払われてい るかのような外観をとる。資本家による労働者の搾取という真実の関係が隠蔽されている。これが労賃とい う形態だ。 ・労賃という現象形態 資本家が労働者から受けとる物とは、ある量の労働である。資本家はこの労働にたいして、何sかの鉄、 何mかの布、何 kgかの小麦などのような、ある量の他の品物にたいして支払うのとまったく同様に、ある 量の貨幣を支払う。そこで労働者のほうでも、自分がこの支払いで受け取る貨幣は、他のすべての商品の場 合と同様に、提供される商品の価値または価格を、したがって労働の価値または価格を補填するように見え る。だから、この貨幣は労働賃金と呼ばれるのである。 労働賃金は、労働力の価値または価格に対して―労働の価値または価格にたいしてではなくて―支払われ る等価物のたんなる現象形態、転倒した表現様式以外の何ものでもない。 そもそも労働者が労働する許可、したがって生きていく許可を手に入れるのは、彼が資本家のために強制 労働をおこなうときだけである。ある人間が、他の人間のために無償でおこなわなければならないどんな労 働も、本来強制労働なのである。この強制労働は、この人間が他の個々の人間なり、ある階級なりにたいす る隷属関係にあるということ、したがって彼は事実上奴隷であってけっして自由人ではないということを示 している。 この本当の事情が、労働賃金というありふれた形態によっておおい隠されている。外見上は、労働者は彼 の労働のどの1分間といえども無償でおこなったわけではない。彼の強制労働の、したがってまた彼の隷属 関係の痕跡はあとかたもなく消えてしまっている。そればかりではない。労働者の行った労働によって生み 出された価値のすべてが支払われるという外観をもつということは、資本家の利潤が労働者の不払労働、強 制労働から生み出されたという真実の関係は完全に見えなくされるのである。 「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれること のいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現れるのである。夫役では、夫役 40 民が自分のために行う労働と彼が領主のために行う強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚 的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つ まり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる。彼のすべての労 働が不払労働として現れる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものと して現れる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あ とのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」 41 第7篇資本の蓄積過程 ※資本の蓄積とは、生産された剰余価値の資本への転化、すなわち剰余価値による資本の生産過程である。 社会は生産をやめることはできない。どんな社会的生産過程も、それを恒常的な関連のなかで、またその たえまない更新の流れのなかで見るならば、同時に再生産過程である。資本がくり返し再生産される過程と は一体どういうことなのかを明らかにしていく。 <単純再生産> ・労働力に投下される部分(可変資本部分) 労働者自身によって絶えず再生産される生産物の一部分、それが労賃の形で絶えず労働者の手に還流する。 「可変資本は、ただ、労働者が彼の自己維持と再生産とのために必要とし社会的生産のどんな体制のもと えでもつねに自分で生産し再生産しなければならない生活手段財源または労働財源の一つの特殊な歴史的現 象形態でしかないのである。労働財源が彼の労働の支払手段という形で絶えず彼の手に流れてくるのは、た だ、彼自身の生産物が絶えず資本という形で彼から遠ざかるからでしかない」 ・総資本(投下資本価値全体) 資本が彼自身の労働から生まれたものであろうとなかろうと、つまりそれが最初にどこから生まれたもの であろうと、それは遅かれ早かれ、不払いの他人労働の物質化になる。 ・資本主義的生産の恒常的基礎―賃金労働者の再生産 「貨幣が資本に転化するためには、商品生産と商品流通とが存在するだけでは足りなかった。まず第一 に、一方には価値または貨幣の所持者、他方には価値を創造する実体の所持者とが、一方には生産手段と 生活手段の所持者、他方にはただ労働力だけの所持者が、互いに買い手と売り手として相対していなけれ ばならなかった。つまり、労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との 分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである」 「ところが、はじめはただ出発点でしかなかったものが、過程の単なる連続、単純生産によって資本主義 的生産の特有な結果として絶えず繰り返し生産されて永久化されるのである。一方では生産過程は絶えず 素材的富を資本に転化させ、資本家のための価値増殖手段と享楽手段とに転化させる。他方ではこの過程 から絶えず労働者が、そこにはいったときと同じ姿で―富の人的源泉ではあるがこの富を自分のために実 現するあらゆる手段を失っている姿で―出てくる。彼がこの過程にはいる前に、彼自身の労働は彼自身か ら疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程のなかで絶えず 他人の生産物に対象化されるのである。生産過程は同時に資本家が労働者を消費する過程でもあるのだか ら、労働者の生産物は、絶えず商品に転化するだけではなく、資本に、すなわち価値を創造する力を搾取 する価値に、人身を買う生活手段に、生産者を使用する生産手段に、転化するのである。それだから、労 働者自身は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、 生産するのであり、そして資本家もまた絶えず労働力を、主体的な、それ自身を対象化し実現する手段か ら切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体のうちに存在する富の源泉として、生産するのであり、 簡単に言えば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または 永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである」 42 「社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外にあっても生命のない労働用具と同様に 資本の付属物である」 「個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産とが行われるようにし、他方では、生活手段をなく してしまうことによって彼らが絶えず繰り返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、 賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている」 「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって、労働力と労働条件との分離を再生産する。したがっ てそれは、労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてい くことをたえず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことをたえず可能にする。資本家と労働者とが 商品市場で買い手と売り手として相対するのは、もはは偶然ではない。一方の人をたえず自分の労働力の 売り手として商品市場に繰り返し投げ返し、また彼自身の生産物をたえず他方の人の購買手段に転化させ るものは、過程そのものの必至の成り行きである」「資本主義的生産過程は、関連のなかで見るならば、 すなわち再生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、 一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである」 <剰余価値の資本への転化=資本の蓄積> 「過去の不払労働の所有が、今では、生きている不払労働をますます大きな規模でいま取得するための ただ一つの条件として現れる」 「資本家と労働者とのあいだの交換という関係はただ流通過程に属する外観でしかなくなり、内容その ものとは無関係でただ内容を不可解にするだけの単なる形式になるのである。労働力の不断の売買は形式 である。内容は、資本家が、絶えず等価なしで取得するすでに対象化されている他人労働の一部分を、絶 えず繰り返しそれよりも多量の生きている他人労働と取り替えるということである」 「所有は、今では資本家の側では他人の不払労働またはその生産物を取得する権利として現れ、労働者 の側では彼自身の生産物を取得することの不可能として現れる」 第23章資本主義的蓄積の一般的法則 <資本の蓄積と資本主義的生産様式> 「この章では、資本の増大が労働者階級の運命に及ぼす影響を取り扱う」と言っている。資本の増大と労 働者の関係はいったいどうなのか、資本の増大は労働者にとって何を意味するのかをはっきりさせていくこ とがこの章のテーマだ。 資本の蓄積にともない労働力需要が増加し、労賃が上がる場合(たしかに「労働者にとって最も有利な蓄 積条件」といえなくもない)から検討をはじめる。 「蓄積は、拡大された規模での資本関係を、一方の極により多くの資本家またはより大きな資本家を、 他方の極により多くの賃金労働者を再生産する」「つまり、資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なので ある」 「資本の蓄積につれて労働の価格が上がるということが実際に意味しているのは、ただ、すでに賃金労 働者が自分で鍛え上げた金の鎖の太さと重みとがその張りのゆるみを許すということでしかないのであ 43 る」 「剰余価値の生産、すなわち利殖は、この生産様式の絶対的法則である。労働力が生産手段を資本とし て維持し自分自身の価値を資本として再生産し不払労働において追加資本の源泉を与えるかぎりでのみ、 ただそのかぎりでのみ、労働力は売れるのである」 「資本の蓄積から生ずる労働の価格の上昇は次の二つの場合のどちらかにあたる」「一つは、労働の価格 の上昇が蓄積の進行を妨げないのでその上昇が続くという場合」これがもう一つの場合であるが、 「または、 労働の価格の上昇の結果、利得の刺激が鈍くなるので、蓄積が衰える。しかし、その減少につれて、その 減少の原因はなくなる。すなわち、資本と搾取可能な労働力とのあいだの不均衡はなくなる。すなわち、 資本主義的生産過程の機構は、自分が一時的につくりだす障害を自分で除くのである。労働の価格は、再 び、資本の増殖欲求に適合する水準まで下がる」 第一の場合には、労働力または労働者人口の絶対的または比率的増大の減退が資本を過剰にするのではな く、反対に、資本の増加が搾取可能な労働力を不足にする。 第二の場合には、労働力または労働者人口の絶対的または比率的増大の増進が資本を不足にするのではな く、反対に、資本の減少が搾取可能な労働力またはむしろその価格を過剰にする。このような資本の蓄積に おける絶対的諸運動が、搾取可能な労働力の量における相対的諸運動として反映するのであり、したがって、 労働力の量そのものの運動に起因するように見えるのである。 「資本関係の不断の再生産と絶えず拡大される規模でのその再生産とに重大な脅威を与えるおそれのあ るような労働の搾取度の低下や、またそのような労働の価格の上昇は、すべて、資本主義的蓄積の本性に よって排除されている」 <相対的過剰人口または産業予備軍> ※資本の増大につれて同時に、資本のうちで労働手段に投下される部分、この固定的な部分はたえず増大し、 労働力に投下される部分、この可変的な部分はたえず減少する(資本の有機的構成の変化)。 資本のこの二つの構成部分の量的割合がこのように継続的に変化していくことの必然的な結果は次のよう なものである。すなわち、社会的労働の生産性が増加していくのと同じ度合いで、また労働者階級が資本の 富を増加させていくのと同じ度合いで、労働者階級は同時に、自分たち自身の構成員のなかのたえず増加す る人数を過剰にするための、解き放すための、いわゆる過剰人口に転化するための手段をつくりだす、とい うことである。 大工業はたえまない変革のなかにあるのだから、またそれはこれまでの行動領域をしばしば急速に拡大し なければならず、たえず新たな行動領域を征服しなければならない。したがって、大工業は、解き放された、 すなわち多かれ少なかれ就業できないでいる、大工業の自由になる労働者大衆を無条件に必要とする。資本 は、現役の労働者だけではなく、必要に応じて資本がどんな瞬間にも生産に投入することができ、また再び 排出することができるような産業予備軍をも必要とするのだ。 「資本主義的蓄積は、その精力と規模とに比例して、絶えず、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖 欲求にとってよけいな、したがって過剰な、または追加的な労働者人口を生み出すのである」「この過剰 人口は、資本主義的蓄積の梃子に、じつに資本主義的生産様式の一つの存在条件に、なるのである。それ は自由に利用されうる産業予備軍を形成するのであって、この予備軍は、まるで資本が自分の費用で育て 上げたものででもあるかのように、絶対的に資本に従属しているのである。この過剰人口は、資本の変転 する増殖欲求のために、いつでも搾取できる人間材料を、現実の人口増加の制限にはかかわりなしに、つ くりだすのである」 44 「産業循環の変転する諸局面は、またそれ自身、過剰人口を補充するのであって、過剰人口の最も精力 的な再生産動因の一つになるのである」 「近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生 ずるのである」「産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発 作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背 景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界の なかに、押しこむのである」 <相対的過剰人口の種々の存在形態> 「どの労働者も、彼の半分しか就業していないとか、またはまったく就業していない期間は、相対的過 剰人口に属する。相対的過剰人口がときには恐慌期に急性的に現れ、ときには不況期に慢性的に現れると いうように、産業循環の局面変換によってそれに押印される大きな周期的に繰り返し現れる諸形態を別と すれば、それはつねに三つの形態がある。流動的、潜在的、停滞的形態がそれである」 「社会的な富、現に機能している資本、その増大の規模とエネルギー、したがってまたプロレタリアー トの絶対的な大きさとその労働の生産力、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくな る」「しかしまた、この予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はます ます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大 .............. きくなればなるほど、公認の受救貧民層もますます大きくなる。これが、資本主義的蓄積の絶対的な一般 .... 的な法則である」 「労働者に向かって、彼らの数を資本の価値増殖欲求に合わせるようにと説教する経済学の知恵の愚か さがわかるであろう。資本主義的生産・蓄積の機構は、この数を絶えずこの価値増殖欲求に適合させてい るのである。この適合の最初の言葉は、相対的過剰人口または産業予備軍の創出であり、最後の言葉は、 現役労働者軍のますます増大する層の貧困と受救貧民の死重とである」 ・マルサスの人口論、ラサール「鉄の賃金法則」 <資本主義的蓄積の反労働者的性格> 「われわれは第4篇で相対的剰余価値の生産を分析したときに次のようなことを知った。すなわち資本 主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高くするための方法はすべて個々の労働者の犠牲において 行われるということ、生産の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、 労働者を部分人間となし、彼を機械の付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の 力としての科学が労働過程に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、 これらの手段は彼が労働するための諸条件をゆがめ、労働過程では彼を狭量陰険きわまる専制に服従させ、 彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガーノート車の下に投げこむ(ほしいまま にさせる)ということ、これらのことをわれわれは知ったのである。資本が蓄積されるにつれて、労働者 の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえない」 「相対的過剰人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくとい う法則は、ヘファイトスのくさびがプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を資本に釘 45 づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積 は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴 隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである」 ※当時世界で最も発展した資本主義として「人を酔わすような、富や力の増加」のなかにあったイギリス資 本主義において、労働者階級の状態がいかなるものであったか。とりわけ、労働者階級の住宅事情や栄養状 態そして衛生状態などの実態。これらはすべて、「資本主義的蓄積の一般的法則の例解」すなわち資本主義が 生みだしたものとして、階級的怒りをもってとらえられている。 ・『貧困大国アメリカ2』 第24章いわゆる本源的蓄積 ※ここで、あらためて『資本論』全体の構造を押さえておきたい。マルクスは、資本主義とは何かを説明す る場合に、太古の昔から歴史を追って説明するというやり方ではなく、目の前にある資本主義社会を「商品 のひとつの集まり」として手に取るようにつかみ、それを商品から徹底的に解き明かす方法をとっている。 そして、資本とは何かを対象化しようとするときに、はるか昔の歴史にさかのぼる必要などはなく、目の前 で日々繰り返されている過程こそが、資本を日々生み出しているのだということを言っている。まず、こう したものとして資本を説明しきっていることが、『資本論』の最大の特徴だ。 これは、プロレタリアートの歴史観でもある。プロレタリアートの歴史観は、つねに、今から出発する。 つまり、目の前の資本主義社会と非和解的に対立している自らの存在と、それを打ち倒す現実の闘いから出 発するのだ。そこを出発点として、われわれはどのようにして生まれてきたのか、そして何をして、これか らどこに進んでいくのかという形で、過去と未来に向かって開かれていく。 『共産党宣言』では、まず最初にプロレタリアートの立場からこれまでの歴史を絶えざる階級闘争の歴史 としてとらえ、そのなかで被支配階級はつねに立ち上がり続けてきたが、自分たちが支配階級となって階級 支配そのものを終わらせることには敗北してきた。しかし、われわれは違う。資本主義の生み出したプロレ タリアートという階級こそは、歴史上はじめて自分自身を解放し、階級支配に決着をつける階級、すなわち 勝利する階級として登場したのだ、と声高らかに宣言するところから書き出されている。プロレタリアート の歴史は、つねに今が出発点である。そして、歴史は決まったものではなく、自ら作り出していくものなの だ。 ちなみに、ブルジョアジーの歴史は、これと根本的に違う。ブルジョアジーは、いかに自分たちが支配階 級になったのか、自分たちの支配がいかに正当であり究極的な社会かということを説明するためにのみ歴史 をえがく。したがって、過去から出発して現在で終わる。 だからこそ『資本論』において、資本を理解する場合に、まず歴史的説明からはいるのではなく、目の前 にある資本主義社会を徹底的に解剖して、われわれの目の前で繰り返し生み出されているのだ、ということ を説明しきっているのだ。その説明をやりきった上で、資本はいかにして資本になったか。その前史を明ら かにするために書かれたのが、この「いわゆる本源的蓄積」である。このような関係であることを押さえて おきたい。 ブルジョアジーの経済学は、資本の前史を次のような牧歌的な物語で説明する。一方に勤勉な先祖がいて その労働によってまず最初の資本が形成された。他方にはなまけもので、自分の持ち物をすべて使い果たし てしまうくずどもがいた―それはプロレタリアートに転落した。しかし、 「実際には本源的蓄積の諸方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではないで ある」 46 本源的蓄積とは、労働者と労働実現条件の所有(生産手段や生活手段)とを暴力的に引き裂き、分離する 過程である。また、全地球からの暴力的収奪である。資本はこのようにしてその出発点を形成した。この本 源的蓄積の過程をとらえかえすことは、資本の本質を把握する上でも、重要なのである。 <本源的蓄積の秘密> ・資本主義的生産様式の結果ではなくその出発点である蓄積。 ・資本関係は、労働者と労働実現条件の所有との分離を前提する。 「いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない」「彼らの収奪の歴史 は、血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書き込まれている」 ・農村の生産者、農民からの土地所有の暴力的な絶滅が全過程の基礎をなしている。 それは、国が違えば違った形態でおこなわれた。この過程が最も明白におこなわれたイギリスを例にとる。 <本源的蓄積の過程と内容> ・農村民からの土地の強奪 ・近代的プロレタリアート形成の暴力的過程―血の立法による賃労働の強制 賃労働にかんする立法のなかで重要なのは、団結禁止法の問題である。イギリスでは、14世紀に始まり、 団結禁止法が廃止された1825年まで、労働者の団結は重罪としてとりあつかわれた。 フランスのブルジョアジーは、フランス革命のまっただなか1791年6月14日の布告において、いっ さいの労働者の団結を憲法違反でかつ「自由と人権宣言の侵害」だと宣言し、罰金と公権剥奪で処罰される べきものと定めた。この法律は、資本と労働とのあいだの競争戦を警察権によって資本に好都合な限度内に 押しこむものであった。 やっとイギリスで労働組合の完全な法的承認がなされたのは1871年になってからでる。 (ブルジョアジ ーは同じ日付の法律で刑法を改正し、労働者のストライキを特別刑法による取締りのもとに移した。また、 ブルジョアジーはそれと同時に「古ぼけた『陰謀』取締法を再び掘り出してそれを労働者の団結に適用する こと」にした。) ・資本家的借地農業者の形成 ・農業革命の工業への反作用 産業資本のための国内市場の形成 <産業資本家の生成> ・世界貿易の発展と重商主義 アメリカでの金銀産地の発見。原住民の掃滅と奴隷化と鉱山への埋没 東インドの征服と略奪。 アフリカの商業的黒人狩猟場への転化。 これらのできごとは資本主義的生産の曙光を特徴づけている。こうしたおぞましいできごとが資本の本源 的蓄積の主要契機なのである。 全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦。 ・植民制度、国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度。 これらの方法の一部は、たとえば植民制度のように、残虐きわまる暴力によって行われる。しかしどの方 法も国家権力、すなわち社会の集中され組織された暴力を利用して、封建的生産様式から資本主義的生産様 47 式への転化を温室的に促進し過渡期を短縮しようとするものである。 これらの、本来のマニュファクチュアの時代に生まれた若芽は、大工業の幼年期には巨大に成長する。 ・大工業の誕生とともに、児童労働が導入される。黒人奴隷制。 「マニュファクチュア時代に資本主義的生産が発展してくるにつれて、ヨーロッパの世論は羞恥心や良心 の最後の残り物をも失ってしまった。諸国民は、資本蓄積の手段としてのあらゆる非行を露骨に自慢した」 「資本は頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくる」 <資本主義的蓄積の歴史的傾向> 「資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的生成は、どういうことに帰着するであろうか?」「それが 意味するものは、ただ直接生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私有の解消でしかないのである」 「社会的、集団的所有の対立物としての私有は、ただ労働手段と労働の外的諸条件とが私人のものであ る場合にのみ存立する。しかし、この私人が労働者であるか非労働者であるかによって、私有もまた性格 の違うものになる」 「労働者が自分の生産手段を私有しているということは小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と 労働者自身の自由な個性との発展のために必要な一つの条件である」 →中世の農民や都市の手工業者などをさしている。 「この生産様式は、土地やその他の生産手段の分散を前提する。それは、生産手段の集積を排除すると ともに、同じ生産過程のなかでの協業や分業、自然にたいする社会的な支配や規制、社会的生産諸力の自 由な発展を排除する。それは生産および社会の狭い自然発生的な限界としか調和しない」 「ある程度の高さに達すれば、この生産様式は、自分自身を破壊する物質的手段を生みだす。この瞬間 から、社会の胎内では、この生産様式を桎梏と感ずる力と熱情とが動きだす。この生産様式は滅ぼされな ければならないし、それは滅ぼされる。その絶滅、個人的で分散的な生産手段の社会的に集積された生産 手段への転化、したがって、多数人の矮小所有の少数人の大量所有への転化、したがってまた民衆の大群 からの土地や生活手段や労働用具の収奪、この恐ろしい重苦しい民衆収奪こそは、資本の前史をなしてい るのである」「直接的生産者の収奪は、なにものをも容赦しない野蛮さで、最も恥知らずで汚らしくて嫌ら しくて憎らしい欲情の衝動によって、行われる。自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個体と その労働諸条件との癒合にもとづく私有は、他人の労働ではあるが形式的には自由な労働の搾取にもとづ く資本主義的私有によって駆逐される」 「この転化過程が古い社会を深さから見ても広がりから見ても十分に分解してしまい、労働者がプロレ タリアに転化され、彼らの労働条件が資本に転化され、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになれ ば、それから先の労働の社会化も、それから先の土地やその他の生産手段の社会的に利用される生産手段 すなわち共同的生産手段への転化も、したがってまたそれから先の私有者の収奪も、一つの新しい形態を とるようになる。今度収奪されるのは、もはや自分で営業する労働者ではなくて、多くの労働者を搾取す る資本家である」 「この収奪は、資本主義的生産そのものの内在的諸法則の作用によって、諸資本の集中によって行われ る。いつでも一人の資本家が多くの資本家を打ち倒す。この集中、すなわち少数の資本家による多数の資 本家の収奪と手を携えて、ますます大きくなる規模での労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応 用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手 48 段としての使用によるすべての生産手段の節約、世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、 したがってまた資本主義体制の国際的性格が発展する。この転化過程のいっさいのいっさいの利益を横領 し独占する大資本家の数が絶えず減ってゆくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大 してゆくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合 され組織される労働者階級の反抗もまた増大してゆく。資本独占は、それとともに開花しそれのもとで開 花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは 調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。 収奪者が収奪される」 「諸個人の自己労働にもとづく分散的な私有から資本主義的な私有への転化は、もちろん、事実上すで に社会的生産経営にもとづいている資本主義的所有から社会的所有への転化に比べれば、比べものになら ないほど長くて困難な過程である。前には少数の横領者による民衆の収奪が行われたのであるが、今度は 民衆による少数の横領者の収奪が行われるのである」 第25章近代植民理論 ・二つの違う種類の私有。一方にあるのは自分自身の労働にもとづく私有、中世の農民など。他方にあるの は他人の労働の搾取にもとづく私有、これが資本家。後者は単に前者の正反対であるだけではなく、前者の 墳墓の上でのみ成長する。 ・植民地における資本主義的生産・蓄積の困難。土地が好きなだけ手に入るという条件にあっては、労働者 階級になる人がいないということ。どれだけ資産を持っていっても、資本主義的生産と蓄積を行うことがで きない。アメリカとオーストラリア。 「それは、植民地についてなにか新しいことを発見したということではなく、植民地で本国の資本主義 的諸関係についての真理を発見したということである」 「植民地ではどこでも資本主義的支配体制は、自分の労働条件の所有者として自分の労働によって資本 家を富ませるのではなく自分自身を富ませる生産者という障害にぶつかる」 ・植民地での賃金労働者の製造。 労働力を商品として売る以外に生きられない労働者階級をどうやって人為的に製造するか。 「政府の力で処 女地に需要供給の法則にはかかわりのない価格をつけ」るということに尽きる。 「移住者は土地を買って独立農民になれるだけの貨幣をかせぐまでには今よりももっと長く賃労働をし なければならなくなる。 …他方、政府は賃金労働者にとって相対的に禁止的な価格で地所を売却すること から生ずる財源、つまり神聖な需要供給の法則の侵害によって労賃からしぼり取られるこの貨幣財源を、 …ヨーロッパから植民地に貧民を輸入して資本家さまのために彼の賃労働市場をいっぱいにしておくた めに利用する」 結局、ここで明らかになるのは、ただ一点次のことである。 「資本主義的生産・蓄積様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく私有の絶滅、 すなわち労働者の収奪を条件とする」 49 ■第2部資本の流通過程 第1篇 資本の諸変態とその循環 第2篇 資本の回転 第3篇 社会的総資本の再生産と流通 ■第3部資本主義的生産の総過程 第1篇 剰余価値の利潤への転化と剰余価値の利潤率への転化 第2篇 利潤の平均利潤への転化 第3篇 利潤率の傾向的低下の法則 第4篇 商品資本および貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化(商人資本) 第5篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂 利子生み資本 第6篇 超過利潤の地代への転化 第7篇 諸収入とそれらの源泉 ※最後に、『資本論』全3巻をとおして、結論として何が言いたいのかということを見ていきたい。それが、 第3部第7篇にあたる部分である。 『資本論』全体は商品とは何かから始まり、資本とは何であるか、資本主義的生産様式によって支配され る資本主義社会はどのような独自性をもった歴史社会なのか、その矛盾はどこにあり、どのように展開され るのかということを詳細に解き明かしてきた。第3部第7篇では、その全内容をふまえて、資本主義のイデ オロギーを完膚なきまでに批判し尽くすと同時に、労働者階級とはいかなる存在なのか、社会主義・共産主 義とは何かということを、科学的な根拠をもって打ち出していくのである。 第48章三位一体的定式 ※資本主義社会は、剰余労働の搾取にもとづく、独自な性格をもつ歴史的な一つの社会形態である。しかし、 このことが、イデオロギー的におおい隠されるのが資本主義社会だ。資本の支配に永久の正当性を与えるイ デオロギーがどのようにして生まれ、完成されていくか。それを解き明かし、批判する。資本主義が土台か ら崩壊し、労働者が立ち上がる今日において、資本家はますますブルジョアイデオロギーにすがりつくので あって、これを粉砕する意義はまさに今日的課題そのものだ。 ブルジョアジーの経済学は、労賃、利潤、地代という三つの違った収入形態は、それぞれ労働、資本、土 地という源泉から発生するものであると錯覚する。そこには、階級的搾取などかけらも存在しないかのよう な外観が成立する。そして、これこそが人間社会の普遍的な、自然的関係であり、あらゆる社会的生産の本 性から生じる関係なのだと思い込むのである。われわれは、資本主義を根底的に対象化することによって、 資本主義社会のイデオロギー的転倒性、デタラメ性をとことん暴ききり、こんな社会は打倒する以外にない こと、労働者階級はこんなものに断じて支配される存在ではないことをはっきりさせる。 「資本―利潤(企業者利得・プラス・利子)、土地―地代、労働―労賃、これは、社会的生産過程のあ 50 らゆる秘密を包括している三位一体的形態である」 「俗流経済学は、ブルジョア的生産関係にとらわれたこの生産の当事者たちの諸観念を教義的に通訳し 体系化し弁護論化することのほかには、実際にはなにもしない」 「資本、土地、労働!しかし、資本は物ではなく、一定の、社会的な、一定の歴史的な社会構成体に 属する生産関係であって、この生産関係がある物で表されてこの物に一つの独自な社会的性格を与えるの である。資本は、物質的な生産された生産手段の合計ではない。資本というのは、資本に転化した生産手 段のことであって、生産手段それ自体が資本でないことは、金銀それ自体が貨幣でないのと同様である。 資本は、社会の一定部分によって独占された生産手段であり、生きている労働力にたいして独立化された、 ほかならぬこの労働力の生産物と活動条件とであって、これらのものがこの対立によって資本において人 格化されるのである」「だから、ここには、一つの歴史的につくりだされた社会的な生産過程の諸要因の 一つがもっている一定の、一見非常に神秘的な、社会的な形態があるのである」 「次には資本と並んで土地が、無機的自然そのものが、まったく野生のままの『粗雑な混沌とした塊』 がある。価値は労働である。それゆえ、剰余価値は土地ではありえない。土地の絶対的な豊穣さは、ある 量の労働が、土地の自然的な豊穣さによって制約されたある生産物をもたらす、ということのほかにはな にごともひき起こさない。土地の豊度の差は、同じ量の労働と資本、つまり同じ価値が、違った量の土地 生産物に表されるということ、つまり、これらの生産物が違った個別的価値をもっているということをひ き起こす」 「最後に、一体のうちの第三位として、単なる幽霊―労働『というもの』があるが、これは一つの抽象 以外のなにものでもなく、またそれだけとして見ればけっして存在しないものである。…それは、人間が 自然との物質代謝をそれによって媒介する生産的活動一般である。といっても、これは、どんな社会的形 態も性格規定もはぎ取られているだけではなく、社会にかかわりなく、あらゆる社会から切り離されて、 その単なる自然存在にあってさえこのような媒介をするものあり、また、生命の発現であり生命の実証で あるものとして、およそまだ社会的ではない人間にも、すでにどのようにか社会的に規定されている人間 にも、共通なものである」 ブルジョア経済学は資本、土地、労働という互いに何の関連もないものを並べ、それが源泉となって利潤、 地代、労賃という収入が発生するのだと観念する。それがまったくのデタラメな組合せであることに気づき もしない。 資本主義的生産過程は、それに先行するすべての生産過程がそうであるように、一定の物質的条件のもと で行われる。これらの条件は、諸個人が自分たちの生活の再生産過程で結ぶ一定の社会的関係の担い手であ る。すなわち、生産手段を私的に占有する資本家階級と、いっさいの生産手段から切り離され、自らの労働 力を資本家に売ることでしか生きられない労働者階級が存在するということ。これらの条件も、これらの関 係も、一方では資本主義的生産過程の前提であり、他方ではこの過程の結果であり所産である。これらはそ の生産過程によって生産され再生産される。 「資本は、それに対応する社会的生産過程で一定量の剰余労働を直接生産者または労働者から汲み出す のであって、この剰余労働は、資本が等価なしで手に入れるものであり、また、どんなにそれが自由な契 約的な合意の結果として現れようとも、その本質から見ればやはり強制労働なのである」 「剰余労働一般は、与えられた欲望の程度を越える労働としては、いつでもなければならない。資本主 義制度や奴隷制度などのもとではそれはただ敵対的な形態だけをもつのであって、社会の一部分のまった くの不労によって補足されるのである。一定量の剰余労働は、災害にたいする保険のために必要であり、 51 欲望の発達と人口の増加とに対応する再生産過程の必然的な累進的な拡張のために必要なのであって、こ の拡張は資本主義的立場からは蓄積と呼ばれるのである。資本の文明的な面の一つは、資本がこの剰余労 働を、生産力や社会的関係の発展のためにも、またより高度な新形成のための諸要素の創造のためにも、 以前の奴隷制や農奴制などの諸形態のもとでよりもより有利な仕方と条件のもとで強要するということ である。このようにして、資本は、一方では、社会の一部分が他の部分を犠牲にして行う社会的発展(そ の物質的な利益も知的な利益も含めて)の強制や独占がなくなるような段階を引き寄せる。また他方では、 それは、社会のより高度な形態のなかでこの剰余労働を物質的労働一般に費やされる時間のより大きな制 限と結びつけることを可能にするような諸関係への物質的手段と萌芽をつくりだす」 資本主義的生産関係は、生産者からの剰余労働の搾取にもとづく、一つの階級社会であり、労働者階級は 他人のためにただ働きをしなければ生きていくことすら許されない。しかし、その根本にある剰余労働はい かなる社会形態にあっても必要なものである。それが資本主義においては敵対的な、他人の労働の搾取とい う形で現れる。 社会主義社会の展望は、現実の資本主義的生産の発展のなかから形成されてくる。それは抽象的な理想や 理念ではない。資本主義の部分的な改良・手直しではなく、資本主義的生産関係の総体を把握して、これを 労働者階級が革命的に転倒したときに、労働者が主人公となった社会が現実的に切り開かれる。 <労働時間の短縮―階級の廃止> 「自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始 まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである」 「自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合さ れた生産者たちが、 …自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合 理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり力の最小の消費によって、自分たち の人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。しかし、こ れはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真 の自由の国が始まるのであるが、しかしそれはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開 くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である」 ※資本主義を総体としてひっくり返した社会とはどんな社会か。「労働日の短縮こそは根本条件である」と単 純明快に言い切っている。資本家による搾取とは、労働者を長時間働かせることにある、と規定したが、今 度はその反対なのだ。そして、労働日の短縮こそは階級そのものを廃絶する。すべての人間の労働時間が短 縮されたときに階級支配はなくなるのだ。真理は実に簡単なことなのだ。 労働者階級は、本来労働者の肉体と切って離すことのできない労働力が商品化されるというあり方、賃労 働と資本の関係そのものを廃棄し、価値法則によって経済過程が外的に支配されるというあり方を廃絶して、 自然と人間との物質代謝を労働者階級による共同的統制のもとに置く。そのことによって、力の最小の消費 によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うことができる ようになる。 生産が各々の資本家の剰余価値を目的としてではなく、社会的に意識的制御のもとで行われるようになる と、資本家のためのただ働きが不要になるだけでなく、資本主義を資本主義として成り立たせるためにのみ 行われている労働は不要になり、労働日は圧倒的に短縮される。そして、その土台の上に「自由の王国」が 打ち立てられていく。 <ブルジョア経済学の転倒した観念がいかに形成されるか> 52 資本が利潤をもたらし、土地が地代をもたらし、労働が労賃をもたらすという不合理な形態。この形態の もとでは、どこにも強制労働や不当な搾取はないかのように見える。このような、転倒した観念がどのよう にして生ずるのか? 「資本は賃労働としての労働を前提するということは、明らかである」「賃労働としての労働から出発 してそのために労働一般と賃労働との一致が自明のように見えるとすれば、資本も独占された土地も労働 一般に対立して労働条件の自然的形態として現れざるをえないということである。資本であるということ は、いまでは労働手段の自然的形態として現れ、したがってまた、純粋に物的な、労働過程一般でのその 機能から生ずる性格として現れる。こうして、資本と生産された生産手段とは同じ意味の表現になる。同 様に、土地と、私的所有によって独占された土地とは、同じ意味の表現になる。それゆえ、天性から資本 である労働手段そのものが利潤の源泉になり、また土地そのものが地代の源泉になるのである」 「これらの労働条件が資本主義的生産過程でとる一定の歴史時代によって規定された社会的性格は、そ れらのものが自然的に、いわば永遠の昔から、生産過程の諸要素として生まれながらに具えている物的な 性格である。それだからこそ、土地が労働の本源的な従業場面として、自然力の領域として、あらゆる労 働対象の天然の倉庫として、生産過程一般で占める役割と、生産された生産手段(用具や原料など)がそ こで占める別の役割とは、それぞれ、資本と土地所有としてのそれらに割り当たる分け前、すなわちそれ らの社会的な代表者に利潤(利子)と地代という形で割り当たる―ちょうど労働者にとって彼の労働が生 産過程で占める役割が労賃の形で彼の分け前になるように―それぞれの分け前に表されるかのように見 えざるをえないのである」 こうして、資本と土地所有と労賃は、価値の一部分が利潤という形態に、第二の一部分が地代という形態 に、第三の一部分が労賃という形態に転化することを媒介する源泉から、現実の源泉に転化して、そこから 生産物の価値そのものが発生することになるのである。 資本から利潤が、土地所有から地代が、労働から労賃が現実に生みだされてくるかような偽りの外観は、 現実の賃労働と資本の関係そのものからくり返し生み出されてくる。そして、資本主義という歴史的な独自 な社会形態(生産手段の資本家的私有、労働力の商品化にもとづく一つの階級社会)があたかもすべての社 会に共通な自然必然的な形態あり、真理の社会であるかのように錯覚させるのである。この転倒したイデオ ロギーの裏にあるのは、社会的生産が、賃労働と資本の関係を媒介として取り結ばれ、成立し、形成してい るということにほかならない。 「われわれはすでに資本主義的生産様式の、また商品生産さえもの、最も単純な諸範疇について述べた ところで、つまり商品と貨幣について述べたところで、神秘化的な性格を指摘したが、この性格は、社会 的な諸関係、すなわち生産にさいして富の素材的諸要素がそれの担い手として役立つところの社会的な諸 関係を、これらの物そのものの諸属性に転化させ(商品)、またもっとはっきり生産関係そのものを一つ の物に転化させる(貨幣)」 「資本主義的生産様式では、そしてそれの支配的範疇であり規定的生産関係である資本のもとでは、こ の魔法にかけられた転倒された世界はさらにいっそう発展する」 「資本をまず直接的生産過程で―剰余労働を汲み出すものとして―見るならば、この関係はまだ非常に 簡単であって、現実の関連はこの過程の担い手である資本家自身に迫ってきて、まだ彼らに意識されてい る。労働日の限界をめぐる激しい闘争はこのことを適切に証明している」「資本主義的生産様式のもとで の相対的剰余価値の発展につれて労働の社会的生産力も発展するのであるが、この発展につれて、この生 産力も直接的労働過程での労働の社会的関連も、労働から資本に移されたものとして現れるようになる。 それだけでも資本はすでに非常に神秘的なものになる。というのは、労働のすべての社会的生産力が、労 53 働そのものにではなく資本に属する力として、資本自身の胎内から生まれてくる力として、現れるからで ある」(第1部に対応する) 「流通過程こそは、元来の価値生産の諸関係がまったく背景に退いてしまう部面なのである」「生産に 前貸しされた価値の回収も、またことに商品に含まれている剰余価値も、流通のなかでただ実現されるだ けではなく流通から発生するように見える。この外観は、とりわけ二つの事情によって固められる。第一 には、譲渡のさいの利潤が詐欺や奸策や専門知識や技能や無数の市況に依存しているということである。 だが、次には、ここでは労働時間のほかに第二の規定的な要素として流通期間が加わってくるという事情 である。この流通期間は、ただ価値・剰余価値形成の消極的制限として働くだけではあるが、しかし、労 働そのものと同様に積極的な原因であるような、また資本の本性から生まれるもので労働にはかかわりの ない規定をもちこむような、外観を呈する」「この部面は競争の部面であって、それは各個の場合を見れ ば偶然に支配されている。だから、そこでは、これらの偶然のなかを貫いてこれらの偶然を規制する内的 な法則は、これらの偶然が大量に総括される場合にはじめて目に見えるようになるのであり、したがって、 そこではこの法則は個々の生産当事者自身にとっては相変わらず見えもしなければわかりもしないので ある」(第2部に対応する) 「しかし、さらに、現実の生産過程は、直接的生産過程と流通過程との統一として、いろいろな新たな 姿を生みだすのであって、これらの姿ではますます内的な関連の筋道はなくなって行き、いろいろな生産 関係は互いに独立し、価値の諸成分は互いに独立な諸形態に骨化するのである」 「剰余価値の利潤への転化は、すでに見たように、生産過程によって規定されているとともに流通過程 によっても規定されている。剰余価値は、利潤という形態では、もはや、それの源泉である労働に投ぜら れた資本部分には関係させられないで、総資本に関係させられるのである。利潤率は固有の諸法則によっ て規制され、この諸法則は、剰余価値率が変わらなくても利潤率が変動することを許し、またこの変動を ひき起こしさえもするのである。すべてこれらのことは、剰余価値の真の性質を、したがってまた資本の 現実の機構を、ますますおおい隠してしまう。さらに、利潤が平均利潤に転化し、価値が生産価格に、す なわち市場価格の規制的平均に転化すれば、なおさらそれはひどくなる。ここでは一つの複雑な社会的過 程、諸資本の平均化過程がはいってくるのであって、この過程は諸商品の相対的な平均価格をそれらの価 値から引き離し、またいろいろな生産部面での平均利潤(それぞれの特殊な生産部面での個別的投資のこ とはまったく無視して)をそれぞれの資本による労働の現実の搾取から引き離してしまうのである」 「企業者利得と利子とへの利潤の分裂は、剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体、本質にたいす る剰余価値の形態の骨化を、完成する。利潤の一部分は、他の部分に対立して、資本関係そのものからは まったく引き離されてしまって、賃労働を搾取するという機能から発生するのではなく資本家自身の賃労 働から発生するものとして現れる。この部分に対立して、次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身 の労働にもかかわりなしに自分の固有な独立な源泉としての資本から発生するように見える」 「最後に、剰余価値の独立な源泉としての資本と並んで、土地所有が、平均利潤の制限として、そして 剰余価値の一部分を次のような一階級の手に引き渡すものとして、現れる。その階級というのは、自分で 労働するのでもなければ労働者を直接に搾取するのでもなく、また利子生み資本のようにたとえば資本を 貸し出すさいの危険や犠牲というような道徳的な慰めになる理由を楽しんでいることもできない階級で ある。ここでは剰余価値の一部分は、直接には社会関係に結びついているのではなく、一つの自然要素で ある土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互間の疎外と骨化との形態 は完成されており、内的な関連は決定的に引き裂かれており、そして剰余価値の源泉は、まさに、生産過 程のいろいろな素材的要素に結びついていたさまざまな生産関係の相互にたいする独立化によって、完全 にうずめられているのである」(第3部に対応する) この章で展開された内容は次のように集約される。 「資本―利潤、またはより適切には資本―利子、土地―地代、労働―労賃では、すなわち価値および富 54 一般の諸成分とその諸源泉との関係としてのこの経済的三位一体では、資本主義的生産様式の神秘化、社 会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生が完成されている」 ※資本、土地所有、労働が収入を生みだす源泉であり、資本家、土地所有者、賃金労働者のそれぞれは正当 な分け前をもらっているにすぎないという転倒したイデオロギーは、資本主義的生産そのものによって、自 己運動的にくり返し生みだされていく。そして、このイデオロギーによってブルジョアジーによる階級支配 は無条件の正当性を与えられる。剰余価値の源泉は完全におおい隠され、資本家、土地所有者、賃金労働者 のあいだになんら階級的搾取はないかのように現れる。歴史的に独自な社会形態にすぎない資本主義社会が、 あたかも本来の自然な姿であるかのようにイデオロギー的に転倒する。 しかし、同時に、これは次のことを意味する。すなわち、この転倒した形態それ自身が、社会的生産が賃 労働と資本の関係すなわち労働力の商品化=階級的搾取関係を基軸として行われているということ、かつそ れが社会の表面において、転倒した形で現れたものであるということだ。このことは、資本主義は「他人の 労働を取得する」という私有財産制度を政治的関係から切り離して成立させることのできる初めての社会形 態であることを意味する。同時にそれは私有財産制度の完成形態であり、すなわち階級社会としてこれ以上 発展する余地の無い、歴史的に最後の階級社会であるということをも意味している。いっさいの生産手段と 生活手段を奪われ、人間ではなく商品とされている労働者階級が団結して資本主義を倒せば、自分自身を解 放し、それをとおして階級社会を廃絶することができるということだ。これが結論である。 ・すべての社会的生産様式に共通な基礎 「とにかく、労賃をその一般的な基礎に、すなわち労働者自身の労働生産物のうちの労働者の個人的消 費にはいる部分に、還元するとしよう。この分け前を資本主義的な制限から解放して、一方では社会の現 存生産力が(つまり現実に社会的な労働としての彼自身の労働の社会的生産力が)許し他方では個性の十 分な発展が必要とする消費範囲までそれを拡張するとしよう。さらに、剰余労働と剰余生産物を、社会の 与えられた生産条件のもとで一方では保険・予備財源の形成のために必要な、他方では社会的欲望によっ て規定された程度での再生産の不断の拡張のために必要な限度まで縮小するとしよう。最後に、第一の必 要労働と第二の剰余労働のうちに、社会の成員のうち労働能力のある者がまだそれのない者やもはやそれ のない者のために常に行わなければならない労働量を含めるとしよう。すなわち、労賃からも剰余価値か らも、必要労働からも剰余労働からも、独自に資本主義的な性格をはぎ取ってしまうとしよう。そうすれ ば、そこに残るのは、もはやこれらの形態ではなくて、ただ、すべての社会的生産様式に共通な、これら の形態の基礎だけである」 これが第50章の結語に出てくる。 『資本論』は、資本主義的生産関係の特殊性・歴史性の根底にある人間社会の経済生活の基本条件を意識 化し、つかみだした。これによって労働者が資本主義を倒して意識的・計画的に経済運営を行うことが可能 であるという確信を、科学的根拠をもって打ち立てた。 ・『ゴータ綱領批判』 55 第51章分配関係と生産関係 ※われわれは資本主義的生産様式の科学的な分析をやりぬくことをとおして、資本主義社会とはいかなる社 会であり、それを打ち倒すこととはどういうことなのかということをつかみとる地平に到達した。 その立場から、「生産関係と切り離された分配関係のみの改良がありうる」という体制内イデオロギーへ の核心的批判を行う。 分配関係を生産関係から切り離し、分配関係だけは歴史的に発展するが生産関係はいっさいの歴史的発展 から独立な性格をもつものであるという思想。つまり資本主義的生産関係だけは絶対に変わることのない、 超歴史的な、人間の本性から生まれてくるものであるという考え方。これは、分配関係のみの改良や改善が ありうるかのようにいう体制内派のイデオロギーだ。連合の「企業の支払い能力に応じて雇用・賃金は決ま る」論、日本共産党の「ルールある資本主義」。いずれも、資本主義の生産関係は永久不変のものであり、労 働者は資本主義を倒す力などないという敗北主義であり、資本主義的生産関係を永久のものとする資本家の イデオロギーであり、労働者階級に絶望を組織する思想だ。われわれは、これを徹底的に粉砕して、資本主 義的生産関係に死を宣告するのだ。 「資本主義的生産様式の科学的分析は逆に次のようなことを証明している。資本主義的生産様式は特別 な種類の、独自な歴史的規定をもつ生産様式だということ。…この独自な歴史的に規定された生産様式に 対応する生産関係―人間が彼らの社会的生活過程において、彼らの社会的生活の生産において、取り結ぶ 関係―は、一つの独自な、歴史的な、一時的な性格をもっているということ。そして最後に、分配関係は、 本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両方とも同じ歴史的な一時的な性格を 共通にもっているということ」 「資本主義的生産様式をはじめから際立たせるものは、次の二つの特徴である」 「第一に。この生産様式はその生産物を商品として生産する。商品を生産するということは、この生産 様式を他の生産様式から区別するものではない。しかし、商品であることがその生産物の支配的で規定的 な性格であるということは、たしかにこの生産様式を他の生産様式から区別する。このことは、まず第一 に、労働者自身がただ商品の売り手としてのみ、したがって自由な賃金労働者としてのみ現れ、したがっ て労働が一般に賃労働として現れるということを含んでいる」 「商品としての生産物の性格、または資本主義的に生産された商品としての性格からは、価値規定の全 体が、また価値による総生産の規制が、生ずる。価値のこのまったく独自な形態では、一方では、労働は ただ社会的労働として認められるだけであり、他方では、この社会的労働の配分も、その生産物の相互補 足すなわち物質代謝も、社会的連動装置への従属や挿入も、個々の資本家的生産者たちの偶然的な相殺的 な活動に任されてある。資本家的生産者たちは互いにただ商品所有者として相対するだけである。また各 自が自分の商品をできるだけ高く売ろうとする(外観上は生産そのものの規制においてもただ自分の恣意 だけによって導かれている)のだから、内的法則は、ただ彼らの競争、彼らが互いに加え合う圧力を媒介 としてのみ貫かれるのであって、この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺されるのである。ここで は価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者にたいしては自己運動的自然法則として、作用す るだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである」 資本主義とは、一方における生産手段の資本家的私有と他方における労働力の商品化を大前提として、そ の前提のうえで生産過程自身が商品経済のなかで処理されることによって、商品生産が社会の支配的な生産 形態となった一社会である。そこにおいて、私的労働が商品交換をつうじて社会的労働となる過程が外的な 強制法則、価値法則によって支配される。ところが、この法則の貫徹過程はまったく自然成長的なものでし 56 かないのである。 共産主義革命の根本的意義は、自然成長的無政府的運動のなかで自己を貫く価値法則によって支配される 資本主義的社会関係を革命的に止揚し、搾取制度を根底的に一掃する(労働力の商品化を廃絶する)ととも に、社会的生産を意識的計画的な形態で遂行しようとするところにある。これが、「労働者階級の解放は労 働者自身の事業である」ということの根本的な中身だ。われわれの運動はこれを目的意識的に貫き、実行し ていく運動なのである。 その正反対がスターリン主義だ。スターリン主義は、労働者階級による商品経済社会の意識的な廃絶であ ることを意識的に否定する。労働者が変革の主体であることを否定し、価値法則という物神崇拝的な強制力 によって生産過程が支配されることを労働者階級の団結によって意識的に打ち破り、労働者階級による生産 過程の支配に置き換えていくことを否定する。そして、「社会主義は生産力が高まれば自然にくる、それま では革命などやってはいけない」と労働者自己解放の闘いにとことん敵対していくものである。あるいは、 「社会主義では国家が価値法則を利用して生産効率を高めるようになる」と180度捻じ曲げる。 価値法則の廃絶と生産過程の社会的な意識的制御への置き換えについて、エンゲルスは『反デューリング 論』で次のように言っている。 「社会が生産手段を掌握するともに、商品生産は排除され、それとともに生産者にたいする生産物の支 配が排除される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現れる。個人間の生 存闘争は終わりを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物 的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。いままで人間を支配して きた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社 会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによっていまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの 主人となる。これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則が、人間を支配する外的な自然法則として、人 間に対立してきたが、これからは、人間が十分な専門知識をもってこれらの法則を応用し、したがって支 配するようになる。これまでは、人間自身の社会的結合が、自然と歴史とによって押しつけられたものと して、人間に対立してきたが、いまやそれは、人間自身の自由な行為となる。これまで歴史を支配してき た客観的な、外的な諸力は、人間自身の統制に服する。このときからはじめて、人間は、十分に意識して 自分の歴史を自分でつくるようになる。…これは、必然の国から自由の国への人類の飛躍である」 生産手段が社会的所有に転化することによって、個々の労働が資本主義社会におけるように間接的にでは なく、直接的に社会的総労働の構成部分として現れる。生産者は生産物の交換という試行錯誤的な回り道を することなく、生産手段と労働力の意識的計画的配置をおこなうことが可能となる。ある生産物の生産に平 均してどれだけの社会的労働が必要かということは、日々の経験から直接に知ることができるのであって、 価値による仲立ちを必要としないのである。 付け加えると、日本共産党・不破がプロレタリア革命なき未来社会論をかたるために、「自由の国」「必然 性の国」を持ち出している。不破は、現実の資本主義にたいして労働者が怒りをもって立ち上がり、資本主 義を打ち倒して生産手段を奪取すること、価値法則を廃絶し、全社会の意識的・計画的な再組織化を行って いくというプロレタリア革命について一言たりも言わない。日共は、現実の階級闘争においても理論におい ても労働者が資本と闘い、歴史を作っていくことをとことん否定しているのだ。不破はマルクスをつかって、 労働者自己解放を核心とするマルクス主義を解体することで、危機にあえぐ資本主義を支えますと資本家に むかって全力でアピールしているのだ。労働者階級は、断じてこんなものを許さない。 ※あらためて、『資本論』の冒頭の文章に立ち戻る。 「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、 一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる」 57 資本主義は、階級と階級の関係を単純化し、それまでに階級にまとわりついていたさまざまな人格的・身 分的隷属関係をはぎ取り、純粋な商品関係へと転化させた。労働者が労働力商品として売買されることによ って、商品経済社会が支配的となった。労働者が資本主義を倒して支配階級になるということは、労働力商 品化=搾取制度を根底的に一掃するとともに、価値法則を廃絶して生産過程を意識的計画的遂行のもとにお く。労働者階級はそのような歴史的使命をもった階級なのだ。 資本とは、剰余価値の拡大のみを目的とする無限の運動である。資本のあくなき剰余価値への渇望は、労 働者をどこまでも搾取し、支配するものとして襲いかかっていく。 その搾取制度は、生産手段の資本家的私有と生産手段から切り離されたただの労働力としての労働者とい う関係を前提とし、条件として成り立つ。また、この賃労働と資本の関係が、階級的搾取関係をくり返し、 不断に再生産する。 労賃という形態は、剰余価値の搾取という真の関係をおおい隠す。資本主義的生産は、資本家と労働者の 階級関係を、あたかも社会の表面では自由、平等の関係であるかのような形態をとりながら、階級的に支配 する。そのもとでおこなわれる階級的搾取はある限界までいけば終わりということはない。資本の無限の価 値増殖運動は、生きた労働者をますます過去の死んだ労働に従属する以外に生きていけないものへと落とし こめ、極限まで搾取していく。その挙句に生産関係と生産力の発展の矛盾は資本の過剰となって爆発する。 これが恐慌である。恐慌をとおして資本家はさらなる首切りと合理化を強行し、いっそう労働者を搾り取る と同時に、市場や資源を奪い合い、戦争を引き起こす。 しかし、これは逆にいえば、資本主義は膨大な労働者階級を革命の主体として不可避に生みだすというこ とだ。労働者階級が商品ではなく、革命の主体として団結して立ち上がったときに、資本主義は土台から打 ち倒される。労働力が商品として資本家によって搾取される階級関係と同時に、商品経済社会を意識的に打 ち倒し、社会のすべてを団結した労働者階級の下に再組織する。これが革命だ。労働運動・学生運動は、こ のような無限の可能性を持ったものなのだ。 『資本論』は資本主義的生産様式を科学的に対象化しきった。であるがゆえに、労働者階級が商品として 分断されているあり方を打ち破って団結することのなかに資本主義を打ち倒して自分自身を解放し、階級社 会を終わらせる力があるという根底的な確信をえたのだ。 ・分配関係そのものについて 「特定の分配関係は、ただ歴史的に規定された生産関係の表現でしかない」 「この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を 表しているだけである。資本主義的分配は、他の生産様式から生ずる分配形態とは違うのであって、どの 分配形態も、自分がそこから出てきた、そして自分がそれに対応している特定の生産形態とともに消滅す るのである」 分配関係は生産関係の一面である。生産関係を変革することなしに、分配関係のみの改善などありえない。 問題の核心は、資本主義的生産様式そのものの廃絶なのだ。 ・生産諸力と生産関係とのあいだの矛盾と対立 「労働過程が人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、 労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。しかし、この過程の特定の歴史的な形態 は、それぞれ、さらにこの過程の物質的な基礎と社会的な形態とを発展させる。ある成熟段階に達すれば、 一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したとい うことがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的な姿と、 58 他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展とのあいだの矛盾と対立とが、広さと深さを増したと きである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだに衝突が起きるのである」 最後に、資本主義の基本矛盾は、生産諸力と生産関係とのあいだの矛盾と対立として爆発するのだという ことを確認している。 資本主義的生産の発展のなかで、生産の物質的発展と生産の社会的形態とのあいだの矛盾がふかまり、衝 突が起きる。それは階級的敵対が極限化するという形であらわれる。その頂点で起きるのが共産主義革命で ある。 共産主義革命は、物質的生産諸関係の現実の矛盾、生産力と生産関係の矛盾によって必然的に要請される。 そしてまた、労働者階級が資本主義を倒して支配階級になることによって、現実の諸条件を素材として意識 的・実践的に形成されていくものなのである。その条件は資本主義のなかですでに完全に成熟している。あ とは労働者階級が労働者自己解放の闘いを、実行することにかかっている。 資本主義の下ではもはや労働者が生きられない。利潤を無限に求める資本の運動は、もはや社会そのもの を破壊しつくすまでに行き着いた。今日の新自由主義の現実がまさにそうである。資本主義の基本矛盾がわ れわれの目の前で爆発している。資本主義は人間社会と完全に相いれなくなった。今こそこの腐りきった資 本主義をうち倒し、労働者階級の力で社会を根本から革命するときである。そして、それは絶対に可能なの である。 プロレタリア革命=社会主義・共産主義の条件が資本主義的生産の発展のなかで必然的に成熟してくるも のであるということを、エンゲルスは『反デューリング論』で次のように明らかにしている。 「工場内における生産の社会的な組織化が発展して、それとならんでまたそれの上に存在している、社 会における生産の無政府状態と両立できなくなる点に達したという事実―この事実は、恐慌のあいだに多 くの大資本家やもっと多くの小資本家の破滅をつうじておこなわれる力ずくの資本の集中によって、資本 家たち自身に身にこたえてわからされる。資本主義的生産様式の全機構が、この生産様式が生みだした生 産力に圧迫されて、はたらかないようになる。それは、もはやこの大量の生産手段の全部を資本に転化す ることができない」 「一方では、資本主義的生産様式にはこれらの生産力を管理してゆく能力がないことが、証拠だてられ る。他方では、これらの生産力そのものが、ますます力づよくこの矛盾の揚棄をせまるようになる。つま り、それを資本という性質から解放すること、それの社会的生産力としての性格を実際に承認することを、 せまるようになる」 物質的な生産力と社会的な生産関係の矛盾。生産力が巨大になりすぎ、資本主義的生産関係とのあいだで 矛盾・対立が生ずる。恐慌→資本の集中。 資本家は資本の内部で可能なかぎりでこの生産力を社会的生産力として扱うことをやむなくさせる。大量 の生産手段の社会化、国有化へ。鉄道、郵便、電信。 「資本家は、所得を取りこむこと、利札を切ること、さまざまな資本家がおたがいの資本の取りあいを やる取引所で投機をやることのほかには、もはや、なんの社会的活動もしていない」 「資本関係は廃止されないで、むしろ絶頂にまで押しすすめられる。しかし、絶頂にまでのぼりつめた とき、資本関係はひっくりかえる。生産力の国家的所有は衝突の解決ではないが、しかし、そのなかには、 解決の形式的な手段、手がかりが隠されている」 「この解決は、近代の生産力の社会的な本性を実際に承認すること、したがって生産、取得、交換の様 式を生産手段の社会的性格と一致させることのほかにはありえない。そして、そうするためには、社会以 外のなにものの指揮の手にも負えないほどに成長した生産力を、社会が公然と、あからさまに掌握するよ 59 りほかには道がない」 「社会的な生産の無政府状態に代わって、全社会および各個人の欲望におうじての、生産の計画的な社 会的規制が現れてくる。それとともに、生産物がはじめは生産者を、つぎには取得者をも隷属させる資本 主義的取得様式に代わって、現代の生産手段の本性そのものに基礎をおく生産物の取得様式が現れる。す なわち、一方では、生産を維持し拡大するための手段としての直接に社会的な取得、他方では、生活・享 楽手段としての直接に個人的な取得が現れてくる」 今日的には、四大産別決戦こそ社会主義を内包した闘いであるということだ。四大産別(国鉄・JR、郵 政、自治体、教労)に対するブルジョアジーの徹底した民営化・労組破壊攻撃は資本主義的生産様式の根底 的な矛盾の爆発だ。これと徹底的に闘いぬき、労働者階級による支配を打ち立てていく中に、資本主義社会 の根底的な止揚=社会主義・共産主義の道筋があるということだ。 われわれは、資本主義を徹底的に対象化してきた。それによって、労働者階級には資本主義を倒して階級 社会を根底から止揚する力がある、その条件は完全にそろっているということをつかみとってきた。今こそ 「資本主義を倒せ!」を巨万の労働者・学生の合言葉とし、行動綱領としていくときだ。全世界の労働者階 級と団結し、資本主義を打倒しよう。労働者階級の解放―人間解放をかちとる歴史的大決戦にうって出よ う!! 了 60 あとがき 今回の全国学生理論合宿によって切り開かれた地平とは何であろうか?それは端的に言えば、スターリン 主義者によって歪曲されたマルクス主義を現代に復権する一歩を踏みしめた、ということである。その核心 は、戦後の階級闘争における反スターリン主義潮流の全歴史の総括に踏まえ、資本論の地平から「労働者階 級の解放は労働者自身の事業である」ということを根底的に復権するものとしてかちとったことである。 本文中でも触れられているが、スターリン主義によるマルクス主義歪曲の核心は、価値法則を資本主義社 会における固有の法則であるとは理解せず、この価値法則が共産主義社会においても存在するかのように言 うことで、事実上資本主義的生産様式と階級支配とを永久化しようとすることである。 ただし、この「価値法則の絶対化」とも言うべき歪曲を、直裁に「価値法則が社会主義においても作用さ れる」と表現しては資本論の内容との間で齟齬をきたし、スターリン主義者がマルクス主義とは別物に成り 果てたことを示してしまう。そこでスターリン主義者はマルクスの言葉を借りてきたかのような表現を使っ てこの歪曲を表現する。曰くそれは「社会の発展法則」といわれるものである。それは、おもにマルクス主 義の史的唯物論、唯物史観を改ざんするという形をとって出されている観念である。 マルクスとエンゲルスは『ドイツ・イデオロギー』を執筆する過程においてヘーゲル左派の観念論哲学と 対決し、唯物史観を打ち立てた。この際決定的な跳躍点となったのは、マルクスたち自身が一度は圧倒的に 獲得されたフォイエルバッハの唯物論を根底的に批判し、唯物史観として止揚したことである。フォイエル バッハは観念において「神」や「絶対精神」を作り出し、現実と遊離するドイツの観念論哲学者と対決し、 「神は人間が造ったものである」と言い切った。ただし、フォイエルバッハの打ちたてたこの命題は明確な 限界をもっていた。つまりフォイエルバッハは観念世界を徹底的に否定するがゆえに、現実世界をことごと く肯定する立場にたち、現実に存在するあらゆる疎外や矛盾もまた、ことごとく肯定する立場から問題を立 てていくのである。戦争、飢餓、疫病、貧富の格差、資本主義における階級矛盾…これらの事柄はフォイエ ルバッハにあっては、「それも含めて、現実世界全部オッケー!」ということで片付けられてしまうものだっ た。それは、現実の矛盾を宗教的観念によって「癒す」観念論の非科学性を批判した上に、現実の矛盾を全 面的に肯定し、受容するという新たな宗教、新たな非科学を打ち立てるものでしかなかった。 マルクスとエンゲルスは支配的思想である教会権力のイデオロギーに真っ向から批判を加えたフォイエル バッハの飛躍とそれが切り開いた地平を圧倒的に肯定した上で、その明白な限界を乗り越えるために『ドイ ツ・イデオロギー』を執筆した。それは、ヘーゲル観念論において頭で立っていた弁証法を、フォイエルバ ッハの切り開いた唯物論の地平から逆転させ、その神秘化の下に隠されている合理的核心を現実の世界との 根底的対決の立場において鮮明にさせるものであった。 このフォイエルバッハ批判の核心はあえて浅薄に要約すれば、階級史観をフォイエルバッハの欠落した唯 物論に補強した、ということである。簡単な例を取れば以下のようなことである。 「フォイエルバッハは、目の前にあるサクランボの木を見て『美しい!』と言う。そして、このサクラン ボそのものの自然美を全面的に肯定し、そこに神だ、悪魔だ、運命だという観念をさしはさむことを否定す る。しかし、フォイエルバッハは次のことには思いもよらない。つまり、今ヨーロッパの地に立つフォイエ ルバッハの前に広がるサクランボの並木は、数百年前には存在しなかったことを。それは、疑いようもなく 歴史的経過の中で航海、商業、農業などの人間活動の結果によってもたらされたものである。フォイエルバ ッハが『美しい』と感じるサクランボは人間の活動の歴史によってフォイエルバッハの眼前に存在している。 それとまったく同様に、サクランボを見て美しいと感じるフォエイルバッハ自身もまた歴史的な人間活動の 結果である。そもそもサクランボを美しいと感じるその感性はどこからもたらされたのか?自然的にか?宇 宙開闢以来、サクランボの木を美しいと感じることはフォイエルバッハのなかに刻み込まれていた真理なの か?それこそは観念論である。フォイエルバッハの感性は、間違いなく彼が生まれ育った家庭、地域、社会 の中で形成されたものである。あらゆる人間の活動の結果がフォイエルバッハに今この瞬間の感性をもたら した。それらの一切は歴史的である。」 61 ヘーゲルはその観念的世界観の中で、弁証法を通して人間の「活動」を捉えていた。フォイエルバッハは 観念を批判し現実を直視したが、現実に展開される人間の「活動」を捉えることができなかった。この両者 を乗り越え、止揚する立場でマルクス主義の史的唯物論は成立した。 人間の活動の全歴史を根底的に対象化し、それによって人間の活動の結果である現実の矛盾を、人間自身 の手によって解決(=積極的に止揚)していく。これが史的唯物論の核心である。それは同時に解放の主体 はとことん労働者階級自身であることをハッキリさせていく過程であった。 資本主義社会の中で様々にあらわれる矛盾的現実に対して、ある哲学者は神を、ある哲学者は絶対精神を、 ある哲学者は現実の全肯定を対置したが、眼前の現実そのものの変更は提起しなかった。それは、その変革 を成し遂げる主体が哲学者たちにとっては存在しなかったことを意味している。マルクスとエンゲルスが提 起した史的唯物論は、現実の矛盾の一切は人間の活動の結果であることを喝破し、それゆえに解決は人間自 身の活動によって可能であること、それ以外にはありえないことを提起している。この極めてあたりまえの ことを提起するためには、その変革の主体は誰なのか?いかなる根拠をもってそれが可能であるのか?を全 面的に明らかにする必要がある。 マルクスとエンゲルスは、その問いに「労働者階級の解放は労働者自身の事業である」という一語で回答 したのである。 資本主義に至るまでの生産力の発展は自然を人間活動によって変更することの規模を拡大してきた。だが 一方で、人間は自分自身の活動から外化され、自分自身の活動を制御するどころか、活動によって自分が制 御される転倒を生み出してきた。資本主義的生産様式における商品経済を貫徹させる価値法則とは、人間活 動の外化が拡大した結果であり、それをますます拡大させつづける原因でもあるのである。これを解決する 根本的な方法は、その外化されたものを、もともとそれが生み出される根拠となる主体のもとに還すことで しか解決されない。そして、資本主義社会にいたるまでの人間活動とは本質的には労働なのである。そして、 労働の結果である生産物が、その直接的な生産者の手から切断され、剰余労働として他人の手に収められる ことが大きくなればなるほどこの外化は進むのであるが、あらゆる労働生産物が商品として生産され、直接 の生産者は、貨幣所持者として消極的にしか自分の活動の結果に関与できない資本主義社会は、この外化の 完成形態なのである。 重要なことは、この矛盾を作り出したのは人間自身だということである。人間自身の手には負えないよう な自然との関係は歴史的発展の中では絶えず減少している。だから、解決は人間自身の活動によってしかつ けられない。そして、人間自身の活動が生み出す矛盾は、外化されているとはいえ人間の活動が拡張した結 果であるのだから、発展した人間活動が外化されている現実の意識的変革なしにはありえないのである。 本文中に提起されている「価値法則の意識的廃絶」とは、マルクス主義のこの命題を、資本主義社会を全 面的に対象化し、根底的に批判する立場から提起されたものである。 そうしたことを踏まえるならば、スターリン主義によって持ち出されてきた「社会の発展法則」なるもの が、いかにマルクス主義とは関係のないものであるかが理解されるであろう。つまりスターリン主義は以上 のような歴史的経緯をもって提起されている意識的かつ根底的変革の思想である史的唯物論を、 「人類社会は 生産力の特徴によって区分される時代を進み、生産力の発展が新しい時代をもたらす。奴隷制−封建制−資 本主義−社会主義と、社会はこのように発展していく。その過程において社会的には格差の問題や戦争とい うことがあるから、それには反対していく。」というものに改ざんしていくのがスターリン主義なのである。 そこには変革と解放の主体は存在しない。 今回の全国学生理論合宿は、このスターリン主義による歪曲を粉砕し、商品呪物を生み出す商品経済関係 を、外化として、人間自身の活動の疎外として捉え尽くすことで、その解決はこの関係を根本的に生み出し ている労働の担い手、労働者階級自身の手によってこそ、可能なのであるということをハッキリさせた。そ して、そのことをハッキリさせた地平から第 4篇〜第 7篇にかけては階級闘争における合理化攻撃との対決 の意義を鮮明にしめし、動労千葉の反合理化運転保安闘争の決定的地平を資本論的内容から明らかにしたの である。 62 本文でも示されているとおり、資本の運動とは絶えざる合理化の運動であるが、この合理化は常にふたつ の傾向をもって貫徹される。それは、ひとつは労働者階級を分断し、資本に対する抵抗を弱めるということ。 もうひとつは、その運動の中で絶えず資本主義総体を覆しうる革命の条件を準備することである。機械の導 入による児童、女性の労働への引き込み、奴隷貿易などの相対的過剰人口の創出などによって、労働者階級 の抵抗を弱め、剰余価値を増大していくことが資本主義の運動の中で絶えず繰り返される。今日的には民営 化・外注化などによる派遣などの非正規職の拡大、国境を越えた移民労働者の増大などがその典型である。 だが一方で合理化は、相対的により多くの労働者を労働市場に投入し、労働者間の競争戦を激化させること で貫徹されていくという性格上、様々な労働者をあらゆる職業につけるように育成し、さまざまな職場をあ らゆる労働者に開かれたものにしていくものとして進展する。 さらに、相対的過剰人口の創出とは、逆転して考えれば、いつでも交換可能な労働者が飢餓線上とはいえ ともかく膨大な規模で働かないでも生存していられることを意味している。失業保険、生活保護等々の社会 保障制度は、政治的には革命抑止のためであり、経済的には働くことでしか生きていけないプロレタリアー トが働かなくても生きていけることで相対的過剰人口のプールとして維持されていくために存在しているの であるが、そんなものが成り立つということは、それを可能にする膨大な剰余価値がこの社会に存在してい ることを示している。今この地球上には公式の統計だけでもおよそ 2億 1千万人の失業者がいると言われて いる。この 2億1千万人が、人間の類的活動にとって建設的な役割を果たすことは物理的にはまったく可能 なのであるが、資本主義の運動の中では、労働している 30億人を資本の搾取のもとに縛り付ける鎖のため だけの存在にされているのである。何という人間活動の浪費! 人間の活動領域の圧倒的拡張が、極めて転倒した形ではあれ表現されているのが、資本主義という生産様 式なのだ。合理化とは、その資本主義の運動が維持されるための核心そのものなのである。 だがこの転倒は、労働者階級が合理化攻撃に立ち向かい、団結を守り抜くならば、まったく逆のものに転 化する。それは、資本の運動のもとでは分断され部分人間にされつづけている労働者が、発展した生産力の すべてを自分の手に奪い返し、人間活動の発展のすべてを全面的に発展した自分自身として表現していくこ とを可能にするのである。 反合理化運転保安闘争は、その意味で現象的な合理化への反対運動ではない。資本主義の運動の総体を対 象化し、その破産をついて階級的団結を守り抜き、その中で資本家階級から生産点の支配権を奪取し、自ら を生産の主人公へ、支配者へと形成していく闘いである。もっと本質的に言えば、外化された自らの活動を 奪還していく具体的な闘いである、ということだ。 この反合理化運転保安闘争と一体で進められることによってのみ建設されうるのが、資本主義社会を全面 的に転覆するプロレタリア革命の具体的実践部隊である共産主義者の党、革命的労働者党である。 ここにはスターリン主義や、スターリン主義に一定反対の立場をとっていながら、結局のところ「労働者 階級の解放は労働者自身の事業である」を貫徹できずに破産していったカクマルなどの限界を乗り越える地 平があらわされている。 プロレタリア革命とは、すでに提起したとおり資本主義の根底的対象化=批判に基づく根底的変革であり、 その具体的内容は価値法則の意識的廃絶である。そして、この価値法則は商品経済による人間活動の外化の 完成形態を意識的にひっくり返し、全面的に発達した社会的生産力の総体を労働者階級の手に奪還していく ことで達成されるものである。それは政治的には、絶えず被指導者を生み出すものとして進行する資本主義 の運動と意識的に対決し、大衆のより多くを、ついで全人民を政治指導者へと飛躍させていくことで疎外さ れた政治そのものを止揚していく運動でもある。 だが、スターリン主義やカクマルなどの運動の内部では、「労働者自己解放」が百万回繰り返されても、現 実にはあらゆるブルジョア政党に先駆けて被指導者を大量生産する機構に成り果てるのである。なぜそうな るのか?それは彼らが、労働者の政治的組織化は現実の矛盾との対決なしに可能であるかのように観念する からに他ならない。むしろ、このもっとも困難な価値法則による分断との対決を回避したところで、価値法 則によって生み出された矛盾の解決を図るような運動のすべては、結局のところ価値法則が覆しがたいこと を確認するだけに終わり、それをより強めるものとして作用し、現実には他の何よりも疎外的な運動へと転 落するのである。 63 反合理化運転保安闘争路線はこうしたスターリン主義、ファシスト・カクマルらの路線的破産と対決する 中で確立された。そして、この闘いの地平から、資本論とその全面的貫徹であるプロレタリア革命は根底的 に復権されてきたのである。 全国学生理論合宿は、以上のような内容をもって勝ち取られた。それはマルクス主義を根底的に復権し、 矛盾に満ちた現代世界を根底的に変革する闘いの核心的基礎をうち固めた。この地平に立って全国の学生は 革命の闘いを猛然と前進させていくであろう。 ただし、これはあくまでも基礎である。資本論全体、とりわけ 2部、 3部を対象化し、今日的に復権する 作業はまだ端緒についたばかりである。第一部は、資本の運動のもっとも核心を鮮明につかむことで、その 転覆の根拠をもっとも深い一致においてかちとることを可能にしている。だが、そのうえで、現実の資本主 義の運動や、その矛盾の攪乱的な表出のすべてを対象化すること、とりわけ現在進行する世界大恐慌をその 発生の根拠と体制内的な意味合いにおける「解決」の破産性を証明する作業は、いまだ途上にある。 だが、この課題の解決を机上の理論のこねくり回しで得ようとするのは無駄な試みであろう。世界大恐慌 を本当に対象化しうるのは、それと根本的に対決する労働者階級の闘いのただ中においてのみである。 我々は、世界大恐慌と対決し、プロレタリア世界革命を勝ちとらんとする全世界の労働者階級と共にくみ 上げるバリケードの内側で、資本論の歴史的復権の後半作業を成し遂げることを読者諸君に約束したい。 京都大学社会科学研究会 64