3.確信 実莉分かれた後、私は少し遠回りして帰ることにした。  ヨシのことを思い出したせいで、昨日の事までも思い出してしまっていたのだ。帰り際に見たあの恐ろしい海。考えただけで悪寒が走る。あんなのはもうごめんだ。だからもう、しばらく海は見たくない。それが遠回りの理由だった。  私は、商店街大通りから一本入った道に入る。商店街の大通りは、交通量が多い割りに歩道が未整備で危険なのだ。だか一本脇にそれてしまえば閑散として住宅街があるだけだ。ここを使うと車なんかに神経を使わずに帰ることが出来る。と説明したはいいが、ここを通るのは初めてだったりする。入学以来ずっと海沿いの道を利用してきた私である。だが今は、あの道を使う事は考えられない。  世間は今昼時だ。住宅街の家々からは食べ物の匂いが漂って来る。普段なら腹の虫をうならせながら急いで変えるところだが、大きな懸案事項を抱えている今は、それどころではないと体が言ってるようだ。あまり食欲が湧かない。  帰る途中、個人経営と思しき医院を私は見つけた。真新しいが、それ以外には何の変哲も無いと言えるものだった。しかし、医院として、というより医療機関としての常識から逸脱したものがそこにはあった。 『喪中』  病院なのに人が死んだ時いちいち喪に服すのだろうか。いや、これは患者ではなく、病院関係者かその家族が死んだということなのだろう。よく見るとこの医院、自宅もかねているようだし、そういうことなのだろう。どっちにしろ病院に喪中は良くない。  私は再び走り出した。ふと隣の公園に目がいく。そこには黒いスーツを着込んだ男性が立っていた。喪服だろうか。私が彼を見ていると、彼も私のことを見た。私が公園の前を通り過ぎる一瞬、二人の眼が合った。違ったかも知れないが、少なくとも私にはそう思えた。  私は混乱しているのだろう。    外は雨だった。  今日は9月1日。夏休みが終わった日の次の日、つまり新学期最初の日。  例年より少し早い大型台風接近のために、降ったり晴れたりの天気が続くそうだ。私の心境を表しているようで、いい気持ちがしない。  私は、疲労の溜まった頭を揺さぶりながらベッドから起きあがる。本当は夜の明ける前から眼は覚めていたが、することも無かったので今までベッドの中にいたのだ。どうやら私の精神状態は、自分が想像しているよりも深刻な位置にいるらしい。登校日以来の不眠症がそれを証明している。  私は、自分の包まっていた布団を跳ね除け、ベッドから起き上がる。もしこの動作を第三者が見ていたとしたら、私を老人か何かと勘違いするだろう。寝不足で体の自由が利かない自分が苛立たしかった。  私の頭の中には、登校日に実莉から聞いた言葉が、吐き捨てられたガムのようにこびりついていた。夢の中で見たあの一コマ。それを思う度に「あり得ない」と否定するのだが、あり得ない保証もない。この数日間、そんな自問自答を繰り返していた。でも、それも今日で終わる。今日学校に行けば、行ってヨシの元気な姿を見れば、すべて無かったことになる。それがどんな結果でも、進展が無いよりはマシだと、意思に反して感じ始める自分がいた。  私はのスカーフを首に巻く。  ヨシが来てなかったら?  ありえない。常識的に考えて起こり得ない。必死に意識で否定する私。そうだ、ヨシのことだから、登校日のことを忘れていたに違いない。サボったのかもしれない。どっちにしろ彼女は無事なんだ。連絡がつかないのはただのトラブルなんだ。不安に思う度にこうして理由をこしらえて自分を落ち着かせる。もう何度も繰り返したことだ。  私は初日の用意を鞄に詰めると、階段を降りて玄関のドアをあける。朝食はとらない。折からの不眠症で胃の調子も良くないのだ。無理して食べようとすれば戻ってくるだろう。ずっとこんな調子だ。  私は深くため息をつき、自転車に跨る。今日も街中を通って学校へ向かう。もう何日も経っているというのに、あの時の感覚―金縛りにあったとき―が忘れられない。体は何ら異常は無くて、一見すると自分の意思で動いているようだが、その行動は本当に自分の意思なのか後から分からなくなる。あれは本当に自分なのだろうか。もしそうなら、自分とは私が今まで思っていたようなものではないという事になる。自分を区切り、決定付ける枠が壊されたような感覚。その思考過程自体が私の精神に有害な影響を与える。精神がカルシウムで出来ているなら、今頃はスカスカだろう。  私は小雨の降る住宅街通り抜ける。雨に濡れたせいで自転車のタイヤからきいきいと嫌な音がする。  こんなに長い期間精神的に追い詰められたのはいつ以来だろう。  乗用車が、雨に濡れた道路を走り抜けていく。  幼稚園の時、割った花瓶を砂場に隠したとき以来か。あの時は母と相談して自白しに行ったんだった。花瓶を割ったことより、それを砂場に隠したことを怒られたのが不思議だった。  今は誰に相談すればいいのだろうか。  そんなことを考えているうちに学校に着いていた。私は教室への階段を駆け上る(疲労があるので、本当に走れていたかは分からない)。そして自分の教室に鞄を置き、ヨシのいるであろう教室に向かう。ヨシと私はクラスが違うので、確かめにいく必要がのあるだ。中に入り、辺りを見回す。  彼女の姿は見えない。いや、見落としがあるかもしれない。寝不足で集中力が切れているのだから。  私はもう一度。一人ひとり数えながら彼女を探した。 「やっぱり居ない・・・」  やはり彼女の姿は無かった。  そうだ、まだ来ていないんだ。ヨシはいつもチャイムぎりぎりに来るから。  私がそう思い至った瞬間、チャイムが鳴った。  遅刻かもしれない、などと思うほどの余裕は私には無かった。言葉が出なかった。  私が教室に戻ると、授業が始まろうとしていた。授業担当の教員はすでに教卓に就いている。私も席に着き、今後の対応を考えようとしたその時、担任が教室に入ってきた。 「森里、松平、ちょっと」  どうやら私と実莉に用があるそうだ。ヨシの身に何かあったのは、誤魔化しようのない事実らしい。  外はまだ雨が降り続いている。厚い雲のせいで、空は日没後と大差ない。風に当てられガタガタと音を鳴らす窓が、蛍光灯の白い光を反射している。  私たちはしばらく廊下を歩くと、空き教室の前で止められた。すると担任は私たちに説明を始めた。 「いま染井のことで警察が来てる。お前ら、登校日の前の日に染井と海行ったよな。そのときのことを正直に話すんだ。先生はお前たちのことを疑ってる訳じゃないが、偽証罪ってものが・・・」 「先生!!」  力の入った声が薄暗い廊下に響く。担任の説明を遮ったのは実莉だった。 「ヨシは!?ヨシは大丈夫なの?」  大丈夫じゃないよ。ヨシは死んじゃった。もう分かってるから。私の心の中にそんな言葉が浮かんでくる。  担任は、沈痛な面持ちで、私たちに顔を向ける。「俺だって辛いんだ」とでも言いたそうな目だ。 「きのう、隣町の海水浴場で、中学生らしき女の子の水死体が発見された。」  実莉が、その場に崩れ落ちた。 「染井である可能性が高いそうだ」  廊下に彼女の嗚咽が響く。私は以外にも冷静で居られたので、涙を流すことはなかった。多分、ピークはとっくの昔に過ぎていたのだろう。しかし、ケロッとしていては不自然(怪しい)なので、下を向いて泣いている振りだけでもしておくことにした。それに、悲しくない訳でもない。  水死体かぁ。あの夢は本当だったんだだ。私がやったのかなぁ。分かってしまうと、大したことはない。肩の荷が降りた気分だ。自暴自棄なだけか。  担任は実莉の背中をなでている。教員も大変だな、と思う。すると担任は私のほうを向いて、説明を始めた。 「今、岩波が来賓室で警察と話をしてる。先生と平松は後から行くからお前先行っといてくれ」 「はい」  私はいかにも辛そうな声で答える。 「あと、岩波に伝言してくれ。この後のことは担任の指示に従ってくれればいい。もし辛いようなら授業には参加しなくていいって。森里、お前もだぞ。」 「分かりました」  私はまた、辛そうな声で答える。 「あと、このことは他の生徒は知らないから、黙っててくれ。後で先生たちの口から伝える」 「はい」  これ以上ここに居ると無限に説明が追加されそうなので、私はさっさと来賓室に向かう事にした。  来賓室は職員用昇降口のすぐ近くにある。  外は相変わらず、雨が吹き荒んでいた。予報では帰りまでには止むらしいが、どうにも怪しい。  来賓室の前には、職員が一人立っていた。理科の補助教員で、普段一番暇そうな職員だ。暇だから、こういうときには真っ先に使われる。 「今は岩波が聴取をうけてるところだから、ここで待っててくれ」  この男が“聴取”という言葉を使ったのが気になったが、私はただ返事をするだけに留めておいた。 「はい」  状況に反して、私の心は軽くなって来ていた。今の私には―使うのがはばかられる言葉だが―『爽快感』という言葉が当てはまるだろう。  すると来賓室のドアが開き、中から、文子が出てきた。  文子は沈んだ表情で俯いていた。そして、職員に促されるままに教室のほうへ歩き出していってしまった。しかし彼女は曲がり角の直前で立ち止まり、二秒ほど私をみつめた。私には、彼女がほんの僅かに、微笑んでいたように見えた。「大変なことになったね」と言とでもいたかったのだろうか。彼女なりの気遣いと取っておこう。 「入っていいですよ」  来賓室の中から催促がきた。聞きなれない声は警察のものだろう。  私は来賓室に入ることにした。  外はいつの間にか晴れていた。  今は午後四時過ぎ。そしてここは保健室のベッドの上。枕もとから射した西日で目が覚めたのが、二分前のことだ。  私は体を起こすと、レースのカーテン越しに外に目をやった。運動部の掛け声や、下校する生徒の笑い声が聞こえる。ややオレンジ色の太陽が眩しい。  警察の聴取(というより聞き取り)は20分程で終わった。刑事達は、私に疑いの目を向けるようなことはしなかった。むしろ優しく接してくれた。警察の態度が私の予想と違った事が、私に告白の決心をさせてくれた。  警察風に言えば、私は洗い浚い吐いたことになる。岩場であのとき見たことも、すべて。言ってないのは夢の事ぐらいだ。警察の反応が薄かったような気もしたが、どうでもいい。  聞き取りが終わった後の私は、今までの苦悩が無かった事になるぐらい心が軽くなっていたし。それと同時に、今までの分の疲れが私を襲った。  別にこの機会だからという訳じゃないけど、私は保健室で休ませてもらうことにした。それが六時間前。  懸案事項が取り除かれたことで、久しぶりの安眠を堪能することができた。お陰で体の方は快調そのものだ。  改めて考えてみると、とんでもないことが起こったと思う。  私はカーテンを少し開けて外の様子を見る。陽はさっきよりも傾き、より濃いオレンジが私の眼をさす。  本当に、“大変なことになった”と思う。 友人が死んで、私はその友人を夢の中で殺しているのだ。いや、夢で見ただけど、でもそうとしか考えられない。彼女の死因は溺死で、私は大波でさらったのだ。偶然にしては出来すぎている。でも、分からない。私は彼女を殺す理由が無い。彼女は親友で、ちょっと雑なところがあるけど、本当は優しくて・・・・・  そこまで考えると、急に涙が溢れてきた。 「!?・・・・・」  そうだ、ヨシは死んでしまったんだ。  一眠りして、複雑に絡まっていた思考がほぐれたせいで、急に実感が湧いてきた。  私は泣いた。のどの奥の腹の底から湧き出してくるこの悲しみを、抑える事はしなかった。大切な友達が死んでしまったのだ。少しぐらい涙を流したっていいじゃないか。  20分位たっただろうか。一通り泣いて落ち着いた頃、保健室のドアを短くノックして、私のクラスの担任が入ってきた。 「悪いな。もう少しゆっくりさせてやりたかったけど、先生急用が出来ちゃって、すぐ行かなきゃいけないんだ」  それって、今まで外に居ってこと? 「まだ辛いだろうが、連絡しとかなきゃいけないことがあるから」  外で待ってるなら行ってくれればいいのに。知ってたらこんな号泣してない。 「先ず松平のこと。あいつは特にショックが大きかったみたいだから、先に家に返しておいた。お前は寝てたから分からないだろうが、もう下校時刻だ。岩波ももう帰ったと思う」  それぐらいは分かりますよ。横隔膜が痙攣していてうまく喋れないから、せめて心の中では反論しておく。 「あと、他の二人にも言っておいたことだけど、カウンセリングを受けてもらうことになった。話すのが辛いって言うならまだ先でもいいけど、一応説明しておくよ。この近くだと、並木診療所ってところでうけられるみたいだから」  カウンセリングか。確かに今の私には必要かもしれない。ヨシが死んだことは悲しい。涙が引いても、この悲しい気分は心の中で尾を引くだろう。次第によっては涙が引かないかもしれない。 「辛ければ無理して学校来なくてもいいからな。それじゃあ、先生はもう行くから」 「さようなら」  私の少ししゃがれた別れを半分も聞かないうちに担任は出て行った。  仕方が無いので私も帰ることにした。私の荷物は保健室に運び込まれていたので、人気の無い教室に戻る必要は無かった。私は職員室に寄ってもう帰る旨の話を伝えると、校舎を後にした。  日没後の、紫色の空は透き通っていて美しいと思う。雨上がりは特に。それはどこか、涙を流した後の清々しさに似ている。下校時刻は既に過ぎているため、学校正門前のロータリーにいるのは私一人だけだった。  空には一番星が輝き始めていた。  私は校庭を出ると、商店街方面へ向かう道を進んだ。海の見える道は避ける。ヨシは、彼女は海で死んだ。海を見ているだけでそのことを考えてしましそうで、怖かったし、それ以上に辛かった。現実の辛い出来事を少しでも忘れるためには、自然よりも人の喧騒のほうがいい。  自転車のかごに載せた鞄が腕に重い。私は坂道を歩いて下っている。自転車があるのになぜ乗らない、と思うかもしれないが、そんな気分になれない。ただそれだけのことだ。悲しいことや辛いことがあったあとは、歩いて帰りたくなる。  雑木林の木々の葉がゆれだした。少し、風が出てきたようだ。風は海のほうから流れてくる風はかすかに、潮の匂いがした。  忘れようとしても、忘れられるものではない。ほかの事を考えようとしても、ふとしたきっかけで彼女のことが頭を覆ってしまう。『彼女とは二度と会えない』そう実感する度に泣き叫びたくなるのを、必死にこらえなければならないのは辛い。  日暮れ後の町は案外静かだった。メインの通りから外れれば尚更である。私が登校日の時と同じ道を歩いていると、また例の診療所が見えてきた。もう喪中ではないらしい。この前は分からなかったが、内科業務の他にメンタルヘルスケアというのもやっているらしい。 「ここ・・・なんだ」  というか、ここが例の診療所だった。看板の上のほうに小さく“並木診療所”と書かれている。営業時間より小さい文字だもんで分からなかった。  普通カウンセリングというと、専門のカウンセラーが行うものだろうが、こんな診療所にそのカウンセラーが居るとは思えない。だが、そんなことはどうでもよかった。今は、ヨシのことで頭が一杯だ。思い出すと、また悲しい気持ちになってきて、今にも泣きそうだ。だが、私の頬を濡らしたのは涙ではなかった。 「・・・・・」  突然雨が降ってきた。さっきまでは晴れていたのに。  点滅する電灯の光が私を照らす。道の真ん中に立ち尽し、雨を浴びる。濡れたって気にしない。それよりも、悲しかった。頬を伝う冷たい雨粒には、いつの間にか熱い雫が混ざっていた。  もう、いやだ。  全てを放棄してしまいたい。みんな無かったことになるんだったら、元に戻れるんだったら、今の私なんかどうなっても良い。 「・・・なんで、なんでこんなことになったの?」  だれに問うでもない質問をする。当然返事はない。いつもなら、ヨシやフミが隣にいて答えてくれるのだろう。本当にそうだっただろうか?もう思い出せない。それどころか、ヨシの顔もよく思い出せない。毎日あっていたはずなのに。  悲しくて、淋しくて、限界だ。  そんな時だった。 「うわ、・・・どうしたの!?」  そんなとき、後ろから男性の声がした。私は散漫な動作で振り向く。本当はどうでもいいが、一応答えておこう。 「君、中学生?こんな時間に・・・・・ああ、びしょびしょじゃないか」  そこには男が立っていた。歳は二十代後半、インテリっぽい雰囲気で、雨で濡れた白衣を着込んでいる。医者か。 「僕はそこの医院の医師で・・・ええと、とりあえず中入って。ここに居たら風引いちゃうし」 「・・・・・」  私は無言で頷くと、言われるがままに診療所のドアをくぐった。本当なら断るべきかも知れないが、どうでもよかった。なるようになればいい。 「ココア、飲む?」  私は無言で頷くと、鞄に入っていたジャージに袖を通す。少し湿っているが、制服よりは濡れていない。 「いやー、いきなり降り出すんだもんね。参っちゃったよ」  男がやかんを火にかけながら言う。  結局、私が想像していた様なことは何一つ起こらなかった。自暴自棄になって雨に濡れた女と若い男、なんてのはよく聞く話だが。お互い微妙に年齢を外していたこともある。  男の話によると、男はこの診療所の(経営者兼)医師で、並木克人というらしい。本人によると、専門は病理心理学で、それ以外も一応一通り出来るのだという。想像とは逆だった。ここに着くなり乾いたタオルが出てきたことや他の対応を見るに、かなりマメな人物であることがうかがえる。  私たちが今居るのは診療所の三階で、生活スペース(彼に言わせるところの城)にあたるところだ。  制服を乾かすハロゲンヒーターの無音が部屋を包み込んでいる。 「その制服は浜中のだよね。名前、教えてくれないかな」  静寂は男の声で断ち切られた。浜中とは私の通う中学のことだ。ひねりの無い名前だと思う。 「・・・森里、楓」  私の名前を聞いた男の動きが一瞬止まったように見えた。 「ああ、君か。学校から聞いてるよ。なんていうか、辛いだろけど、がんばって」  男は私の前にココアのカップを置くと、自分のカップを啜りながら言った。もう連絡が来ていたのか。  男はやや悲しそうな顔をこちらに向けてくる。  ブラウン管越しにしか見たことの無い本物のカウンセラーだが、彼らなら患者を励ますなり何なりするはずだ。少なくとも、患者が理解できないような行動をとって患者を混乱させるようなことは避けるはずだ。しかし、男の表情から明確な意図を読み取ることは出来なかった。  私がそんなことを考えている間、男は一言も口にしようとはしなかった。結果的に、長い沈黙が発生していた。  ココアの入ったカップを眺めながら、男は話始めた。 「実はさ、僕もつい最近弟を亡くたんだ。だから、僕にはしばらく仕事が回って来ないって話だったんだけど・・・」  そういえば、数日前までこの診療所には喪中の張り紙がしてあった気がする。  私は熱いココアをすする。ふと、男と目が合う。  男は悲しそうな顔の上に笑顔をつくろうと、再び話し始めた。 「こめんね。なんか暗い空気にしちゃってさ。これじゃカウンセラー失格だよな」  “ふぅ”と溜息をつくと男は、立ち上がって干してある制服に触れた。 「もう、乾いたみたいだね。」  私はさっきから黙っているが、実のところそんなに沈んでる訳ではない(沈んでないといえば嘘になるが)。今日はもう十分泣いたし。そういう意味も含めて、今度は私から彼に話しかけてみることにした。 「ありがとう、・・・ございます」 「親御さんにはさっき電話しておいたから・・・・・え?ああ、いやいや、どういたまして。あ、いや、どういたしまして。」  私たちは目を見合わせると、一拍置いて笑い合った。特に言葉は無かったが、今の二人には丁度いい潤滑油になっただろう。 「雨も止んだみたいだし、私そろそろ帰ります。親が心配してるかもしれないし」  雨はいつの間にか止んでいた。その代わりか外は真っ暗だ。 「そう・・・だね。もう暗いし、送っていくよ。」 「そんな、大丈夫ですよ。こっから家近いし」 「近いならなおさら・・・・・」 「今日はありがとうございました。助かりました」  多少強引だが、会話を閉じることにした。ぼちぼち帰らないと、母親に本気で心配されそうだ。当然学校から連絡を受けているのだろうから。捜索届けなんか出されたらたまらない。 「それじゃ、また今度来ますね」  私は荷物を持って、振り返って言う。男は弱々しい笑顔で手を振った。 「なんだか、僕がカウンセリングを受けたみたいだね」  階段を降りている私の耳に、そんな台詞が聞こえてきた。  私は一瞬だけ立ち止まると、またすぐ歩き出した。